怨む心を取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年8月18日】今、他人のミスが私にまで影響を及ぼし、または私に苦痛や不便をもたらし、面倒をかけることがあれば、私は次のようにしています。まずは相手を責めず、相手が私に心を修める機会を提供してくれたと考え、同時に自分に責任があるかどうかを自問します。次に、相手が故意にやった訳ではないと考えて、相手の立場に立って物事を判断し、相手を理解し許すようにしています。第3ステップは、どのように問題を解決するかを考えます。

 辞書の説明によると、怨みというのは、相手の仕打ちに対する不快・不満の気持をその人に対していつまでも持ち続けることです。私はよく夫と姉を相手に、怨み言を言います。彼らとの接触が多いので、生活の中で私は屡々(しばしば)怨み言を口にします。たとえば、夫が野菜や果物を多めに買って帰ったり、あるいはその質があまりよくなければ、私は「なぜこんなにたくさん買ってくるの? いつになったら食べ切れるの? こんなに古くなったお野菜も買うの?!」と心の中で愚痴を言いました。また、退社時間が随分過ぎても帰ってこない夫を心配し、電話で事情を確認した後、受話器を下ろすや否や、私はこう考えました。「事情があるなら、事前に教えてくれればいいのに、何のために急いでご飯を作って、また温めなければならないのか!」。似たような事はたくさんありました。

 修煉してから「忍」を知り、上述のようなことがあれば、口では何も言わなくなったものの、心の中ではやはり平静を保てず、内に向けて自分自身を探しませんでした。せいぜい考えたのは、「買ってくれるだけでも感謝すべきだ。あれこれケチを付けるのをやめよう」ということで、法理に沿って認識しておらず、この執着心を取り除くこともできませんでした。

 怨みの背後に隠れている心

 なぜ私は愚痴をこぼすのでしょうか? じっくり考えてみれば、野菜や果物が多ければ、たとえ冷蔵庫で保管できるにしても、時間が経てば鮮度が落ちたり、腐ったりするので、私にはその面倒さを嫌がる心がありました。夫の帰宅が遅くなれば、彼はどこにいて、何をしていて、車が故障したかもと心配し、恐れるのは情で、情を放下していないのです。また、彼を待っている間、いらいらする心もありました。

 さらに探していくと、その背後に隠れている心も見つけました。たとえば、なぜいらいらするのでしょうか? それは焦る心です。なぜ焦るのでしょうか? 何かを行なう前に、私は行動の開始及び終わる時間、その全過程に対して予想を立てる習慣があって、もし予想通りにならなければ焦り始めます。この時、私は自分の予想に追い込まれて情緒が少しずつ「助長」され、話すスピードが速くなり、声も高くなり、「苛立つ」ことさえありました。

 ある日曜日、家で姉(同修)と一緒に学法を終え、午後に法輪功の資料を配りに行こうと考えた私は、急いで昼食を用意し始めました。普段、私は2段の蒸し鍋でお粥を炊く際、いつも茶碗蒸しも一緒に作ります。お粥がそろそろ出来上がる前に、溶き卵を入れた茶碗を素早く鍋の上段に置かなければなりません。左手で蓋を開け、右手で茶碗を鍋の中に置こうとした時、焦っている私は茶碗を鍋の縁にぶつけてしまい、溶いた卵液があちこちに散らばって、すぐに怒りが込み上げてきました。

 私の叫び声を耳にした夫、息子と姉はすぐに走ってきました。彼らが私を宥(なだ)めれば宥めるほど私は苛立ち、不満も言葉に現れてきました。「ご飯とおかずは全部一から用意しなければならないのに、誰一人手伝ってくれない...」。結局、皆が暗い雰囲気の中で食事を終え、私も資料を配りに行くこともできませんでした。

 「家庭環境」に由来する怨み

 私の怨みたがる習慣は母と関係があるかもしれません。幼い時から、母の父に対する怨み言をずっと耳にしてきました。一例ですが、嫁いできた母は、父の兄弟の妻たちと当番を決めて、大家族のために朝食を用意しなければなりませんでした。当時は灯油を使っていました。ある日の夜、父は米びつに脱穀する前のたかキビを入れてしまいました。翌朝、母はそれがたかキビの実だと思って、大量のご飯を炊いてしまいました。この件で母は父を責め、自分を苦労させただけでなく、過ちまで犯させたと言いました。また、父の反対で仕事をしに行かなかった母は、後にずっと臨時職にしか就くことができないなど、ずっと怨んでいました。

 結婚してから、私は夫に不平をこぼし始めました。特に、私が出産のために入院した冬のことは一番印象に残っています。夜、家に帰る前、彼は私のスリッパを整えてベッドの下に置きました。夜中にトイレに行こうとしたとき、スリッパが見当たらず、私は一旦素足で氷のように冷たいセメントの地面に立たなければならなかったため、怒りが一気に込み上げてきました。退院して家に帰った日に、彼は家の鍵を持たずに、遊びに来た同僚を見送りに行きました。私は綿入れの靴を履いてドアを開けに行く際、踵を靴の後ろ側の縁で痛めて地面につくことができなくなり、長い治療を経てやっと治しました。この件で私の怨みはさらに深まりました。

 とにかく、私の考えや期待、意思に沿わず、あるいは自分に苦痛をもたらすことに遭遇すれば私は必ず怨んでいました。この怨む心は生じてから随分年数が経つだけでなく、すでに影のように私にくっついています。

 実は、怨むことは物事の結果をもたらした責任や原因を他人に押し付け、いかにも自分には罪や責任がないと、他人を否定し、自分を肯定または高める行為です。このように生じた不平不満の気持ちは自分と他人の両方を害してしまいます。

 法理を悟り、怨む心を取り除く

 師父はこのようにおっしゃっています。「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」[1]。7~8年間も修煉してきた私は未だに怨む心を取り除いておらず、善人になっておらず、苦をもって楽だとも考えていません。覚者になるにはあまりにも程遠いので、早く自分を修めなければと思いました。

 私の願いを見られた師父は、一つの向上の機会を按排して下さいました。数日前、私は姉とショッピングを兼ねて、縁のある衆生に真相を伝えに出かけました。途中、私はスカートを買いました。気に入って買った訳ではなく、姉の薦めで買ったのです。家に帰ってから、私はスカートの背中側のファスナー周辺のミシンの縫い目が真っすぐにかけられていないため、1カ所が膨らんでいるように見えることに気づき、「後ろにいたのに、どうしてよく見てくれなかったの? こんな明らかな欠陥はどうして見えなかったの?」と、また習慣的に怨み始めました。その直後に悟ったのですが、まさに姉の「うっかり」で、愚痴をこぼす私の執着心が露呈されたのではありませんか。そうでなければ、私はどうやってそれを見つけ、取り除くことができるでしょうか?! 良い品を買ってこなかったことに、意義があったのです! 「正しきは彼 過ちは私」[2] という師父の説法がはっきり分かりました。この点を認識してから心が楽になり、そして後悔もしました。以前、このような類いのことがたくさんあったのに、私は全部逃してしまっていたのです。

 師父はこのようにおっしゃっています。「人間が道徳の規範と制約のないときに行なったことは魔性であり、佛を修めることは、つまりあなたの魔性を取り除き、佛性を充実させることなのです」[3]。「人間の佛性とは善であり、慈悲として現れ、何かをするときにまず人に配慮し、苦痛に耐えられることとして現れるものです」[3]。法に照らし合わせ、私はやっと気づきました。この怨む心も魔性です! 物事を行なう際は真っ先に他人を考え、そしてそのように行動すべきです。

 先日、姉と私は同じデジタルオーディオプレーヤーを1台ずつ買いました。翌日、姉は私の家に来て、そのプレーヤーには録音機能がないと言いました。私はありえないと思って試してみると、本当でした。ほんの一瞬、一念が過りました。「だから先に買って、良かったら私も買うと言ったのに、どうしても買え買えと私にまで買わせて」。私はすぐに「違う、怨んではいけない」と気づきました。姉は「他のものに交換してもらおうか?」と言いました。交換しに行けば、きっと店に迷惑をかけることになると思った私は「姉さん、あなたはこれを何に使いますか?」と聞くと、姉は「煉功に使うよ」と言いました。私は「私も同じです。ならば、録音機能がなくても大丈夫です。このまま使いましょう」と言いました。彼女は「そうだね」と同意してくれました。事がこのように「解決」され、私の心はとても穏やかでした。

 私はついにこの怨む魔のコントロールから解放されました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性と魔性」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/19/344470.html)
 
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