悠然と逃れていた高慢な心を見つけ 取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年9月24日】長年の修煉の中で、私は絶えず内に向けて探し、絶えず執着心を取り除いてきましたが、ある執着心にはずっと気づいていませんでした。その執着心はあまりにも悠然としていて、甚だしきに至っては私の思惟まで支配し、弁別しにくい嫉妬心よりも認識しにくいものでした。それがほかでもなく高慢な心で、思い上がりであり、自分が誰よりも偉いと思う心でした。

 この心に支配されれば、以下のような言動を見せます。それらの心は、

 ●孤高を持し(ここうをじし・世間から距離を置いて孤独に生きること周囲に迎合しない )、常人が俗っぽくて愚かだと思ってしまいます。

 誰にも服従せず、他人の欠点だけに着眼し、長所が見えません。

 誰もが自分を刺激してはなりません。もし誰かが自分を刺激してしまえば、その人がもっとも悪い人になり、懲罰や教訓を与えなければならず、死地に追い込むと同時に内心ではこう考えます。「こんな正しくて優秀な私に、ちっぽけなあなたが挑発してくるなんて許さない! 教訓を与えてやる。その結果を味わってもらおう」

 家庭内では、夫婦の間にも強烈な現れがあります。「私の話に従わなければならず、その訳は私には力があって、あなたは無能だからだ」。相手のどこを見ても気に入らず、相手のやることなすことが自分の価値観に合わなければ相手を貶(けな)し、自分が相手よりもずっと優れていると思ってしまいます。

 社内では、上司がリーダーシップに欠けていれば、きっとゴマすりで昇進したとすぐ思い、納得しません。また、仕事をうまくこなす同僚を見て、「運が良いだけで、別に大したことではない」と思います。

 ●自分がリーダーで、リーダーシップの能力があると思っているならば、なおさら優越感を抱きます。例えきちんとリードできていなくても、あまりにも利己的で、怠けている割りには、多くの給料をもらいたい社員の素質が劣っていると考えてしまいます。とにかく自分が正しくて、すべてを他人のせいにします。

 何をするにしても、常に「私が偉い」という心理に制御されて行ないます。真相を伝える時、「私の雄弁さと博識をみてみろ」と言わんばかりに、相手にいっぱい言い聞かせますが、相手が受け入れなければ、「この人はあまりにもひどく洗脳されているから、もう救いようがない」と考えます。また、修煉においても常にこう思います。「私は修煉のコツをよく心得ている。だから執着心を次々と探し出せる。あなた達がなかなか執着心を見つけ出せないのを見たら、本当に悟性が悪いからだ」

 修煉の中で怠けてしまったときは「誰にもウトウトと居眠りしたり、精進しないときがあるものだ」と言い訳をします。

 絶対に損はしません。「こんな素晴らしい私が、どうしてレベルの低い他人に利用されるのか? ありえない。絶対にし返しをしてやる」と根に持ちます。しかし、自分が少しでも得をすれば嬉しくなり、「やはり私だ。能力があるからだ。誰にも負けない。私は根基がよく、徳も福も多くあるからだ」と思ってしまいます。

 トラブルに遭えば、「私には利益を重んじる心がある。名を求める心がある。情を重んじている。闘争心がある」と思ったりしますが、どうしても自分が他人より優れていて、優越感に浸る心があるとまで考えが及びません。

 衆生を救う際に、挫折を味わえば消極的になって、こう考えます。「世間の人達は本当に恩知らずだ。彼らのためにやっているのに、恩を仇で返し、悪い態度を示して聞き辛い言葉を口にし、通報する人さえいる。我々は彼らを救っているので、どんなに偉大な行為だろう。彼らは私たちに感謝すべきだ。それなのに、彼らは感謝を知らず、我々の偉大さがみえず、本当に愚か者だ。やはり大法の良さを知っている私の方が賢い。彼らをはるかに超えている」

 しかし、修煉者として、このように常に目線を外に向けて見るのなら、本当に自分が何をしにここに来ているかを忘れてしまっているようです。私たちは賛辞を聞くためにこの世に来たのですか? 他人を服従させるために来たのですか?

 見上げられたら嬉しくなり、なおも傲慢になります。見下されたり、しいては「いじめ」られたら機嫌を損ねます。

 もし誰もが挑発しに来ず、誰もトラブルを作ってくれないなら、どうやって修煉し向上しますか? それらの執着心は露呈されるのでしょうか?

 そもそも執着心が刺激されたら喜ぶはずですが、常人の観念を持って物事に対応し、挑発してきた人たちを怨んでしまいます。これは修煉者ですか? それとも常人でしょうか? 単に個人修煉の角度からみても、自分を「いじめる」人たちを怨む行為はすべきではありません。彼らがいなければ、自分の執着心はずっと隠されたままで、これではなかなか成就できません。

 言い換えれば、これは自分と衆生、自分と同修間の関係を正しく理解していない表れで、自己中心的で高く留まり、他人を管理しようとし、優越感と支配欲を満たしたい心の働きです。この高慢な心は無礼な人には特に敏感に反応し、憤慨します。なぜでしょうか? 自分の「権威」と「地位」が直に挑戦されたからです。しかし、執着心を探す際、往々にして利益や名誉を求める心を見つけやすく、この高慢な心まで考えが及びにくいのです。

 一見して衝突は利益に起因し、あるいは言葉による不和で、名利心が刺激されたようにみえます。しかし、なぜそんなに怒るのですか? そのちょっとした利益や名誉のために、そんなに怒る必要がありますか? 相手の礼儀知らずに怒っていますか? 相手の世渡りの下手さが自分には何ら関係なく、そんなに怒る必要もありません。

 また、家庭内ではこの高慢な心は、目下の素直でない態度、特に無礼な言い返しには耐えられません。

 自分の家の中で、面子のために怒鳴る必要はあるでしょうか? 利益のためならなおさら怒ってはいけません。実は、その高慢な心が刺激されたからです。この心は少しも触れられてはなりません。

 一部の人は戦うのが好きです。なぜでしょうか? 利益のためだけですか? 名声のためですか? 必ずしもそうではありません。中国共産党の高層階級の戦いはきりがなく、命を捧げるほどです。彼らは名声や利益のために命を捧げるほど愚かではありません。実は、権力や地位をほしがる欲の背後に、この高慢な心が働いているのです。「私は偉大で、栄光があって正しい。私が常に上にいて、他人は俯(うつむ)いて臣と称すべきだ」

 旧勢力、共産邪霊はまさに極まりなく高慢です。この執着心を取り除かなければ、自分の心に魔が生じやすいのです。幸い、私は今これを認識しましたので、徹底的に取り除いていきます。そうでなければ、自他にもよくありません。

 個人的な浅い悟りに過ぎず、妥当でない部分があればご指摘ください。
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/8/31/373142.html)
 
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