文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年10月31日】最近の学法により、私は虚栄心が人心の中で非常に良くないものだと悟りました。修煉の道で、私はずっと虚栄心を持っていた気がします。今までに大分取り除きましたが、まだ細かいところで虚栄心が残っています。
虚栄心には顕示心も含まれています。日常生活のいろんな面で表れます。例えば、着るものを同僚達とお互いに見せびらかしたり、洋服のセンスのことで同僚同士が比較したり、他人のことが気に入らなかったり、他人を嫉妬したりしていました。
私は、「このような場面で、このような議論をしていることは、私はまだこのような常人の心に引っかかっている」と思い、この常人の心を見つけなければならないと思いました。そのとき、私は「内から自分の人心を探すしかなく、他人を指摘する場合ではない」と思いました。
常人の環境で修煉すると、いろんな常人の心が余すところなく表れます。このような表れがなければ、私達は自分の欠けているところを見つけることができません。難に遭ったら、近道はなく、法を学ぶしかありません。しっかり学法しなければ、自分の不足を見つけることができず、師父が示された天機を悟ることはできません。「常人の心」は、修煉する道での障碍物ではありますが、私達の次元が上がるための階段としてなければなりません。
以前、自分の虚栄心が酷く、仕事中でも日常生活でも、このような虚栄心が隠れていました。常人ほど明からさまではありませんでしたが、心理的な衝動がありました。自分は他人よりできると常に思い込み、普段の会話や態度から強く感じられました。例えば、自分の親戚や友人の話をするとき、誰々の地位は高い、誰々は金持ちだ、誰々の子供は優秀だとアピールしました。このように見せびらかした後で、自分の行為は俗っぽく誠実ではないと思いました! 表面上他人のことをアピールしていましたが、実は自分の身分と地位をアピールしたかったのでした。今考えると、大してアピールに値することではなく、常人の名、利、情以上のものではありませんでした。
しっかり法を学び、あきらめないことで、現在同じような状況に遭っても、基本的に師父の法が浮かんで、修煉者としての正念を保つように自分に警告しています。時々目覚めたあと、師父の経文や詩が表れ、常に修煉者として正念を保つようにしています。
虚栄心は多くの物質から派生してきたものがほとんどです。自分がしっかり修められず、常人の心が酷いときに、虚栄心は、メンツを気にしたり、プライドが高かったり、競争意識が強かったり、自分の学識や才能を見せびらかしたり等々、多くの人心が重ねて表れてきます。修煉していなかった時、自分が常人中で身に付けて来た趣味、好み、習慣等がこのような良くない観念を育てました。修煉してから、このような人心を取り除きました。真に修煉者として、人心がある場合、どのような態度で対応すればよいか、大法の書籍の中で、師父は「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[1] と語られました。
学法するにつれて、常人の心がだんだん減り、時間が経つにつれ、師父が語られた「功を修るに路有りて、心を徑と為す、大法は無辺、苦を舟と做す」[2] の別の層の意義を徐々に悟ることができました。
師父の慈悲なる済度とご加護に感謝します! どんなに道が遠くても、真に大法を修煉する者として、後戻りせず、今後の修煉の道を着実に歩んで行きます。この文章で同修達を励ましたいと思います。不足なところがありましたら、同修達のご指摘をお願いします!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「法輪大法」