劉備玄徳の史上稀にみる厚い仁義
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年12月12日】昔から「逆境の時に人の心がよく分かる」という言葉がよく言われます。戦乱に揺れ動いた三国時代では「義」の内包が現れました。三国の「義」は、主に劉備、関羽、張飛の武将の品格によく現れており、特に劉備の仁義については今日の人々に広く知られています。

 群雄割拠する中で、大至急に立脚地を必要とする劉備玄徳(中国、後漢末から三国時代の武将。蜀(蜀漢)の初代皇帝となる人物)は、陶謙から3回も徐州を譲ると言われても、受け取りませんでした。陶謙は臨終の際に、指で心を指して亡くなりました。その意味は劉備にこの徐州の牌印を受け取って欲しいという思いからでした。陶謙の葬儀が終わった後、徐州の軍隊の人達も劉備に牌印を受け取ってもらうように求めましたが、劉備は固く断りました。翌日、徐州の庶民たちは泣きながら拝むようにして、劉備に徐州を管掌(かんしょう・自分の管轄の仕事として監督し取り扱うこと)するようにとお願いしたところ、劉備はようやく受け取りました。劉備の「義」は崇高で、普通の人にはとても、とてもやり遂げることができないものです。

 新野の戦いの後、曹操の軍隊は至る所におり、八つに分かれて劉備の所在地である樊城を包囲し、劉備の生死は一本の糸に懸っていました。投降の勧告に応じなければ即日にでも攻撃すると、曹操側から告げられました。劉備は諸葛孔明(天才軍師)に策を聞いたところ、孔明は「速やかに樊城を捨て、襄陽を取って一時的に滞在するように」と答えました。劉備は「長い間、自分について来ている庶民たちをここで見殺しにし、見捨てるわけにはいかない」と言い張ると、孔明は「一緒について行きたい者は連れて行き、ここを離れたくない者は残ってもよいとお触れを出し、すべて庶民に告知すればいいでしょう」と告げました。この知らせを受けた新野と樊城の2県の庶民たちは、一斉に「我々はたとえ死んでも、劉殿下について行きます!」と号泣しながら、即刻に出発しました。その隊列は年寄りや子供を助け合いながら、また、男女を問わずに引っ張り助け合いながら、大波のように川を渡り始め、両岸の泣き声は絶えませんでした。船上でこの様子を目にした劉備は大泣きして、「われ一人のために、こんなに大勢の庶民たちに大きな災難をもたらしてしまい、われはまだ生きる価値があるのか!」と嘆き、川に飛び込もうとさえしましたが、左右の護衛兵に必死に止められました。船は南の岸に着き振りかえって見ると、対岸にはまだ自分達のいる南に向いて泣いている者が大勢いたため、劉備は急いで船を派遣して迎えに行くように命令し、すべての人が渡り切ったのを確認してから、大将の劉備はようやく馬に乗り前に進み始めました。

 「大きな災難が身に降りかかってきたら、それぞれ各自を守れ」という言葉があります。自分の生死存亡の折に、劉玄徳のように一心に庶民を守るような人物がいるでしょうか? 大勢の老若男女の家族を連れて一緒に同行するのは軍隊にとっては足手まといになり、一番危険で忌避されることであるのに、劉備の庶民を大事に思う崇高な大義は、古今東西でも指折り数えるほど有名な史実です。

 襄陽城の外に着いた後、劉備の甥である劉琮は門を開けずに拒否し、矢までも射りました。その時、魏延という武将が刃物で城門を警備する者を殺害し、大門を開け「劉陛下、早く兵隊を率いてお入りになり、ともに裏切り者を殺しましょう!」と歓迎しました。張飛が馬に乗って入ろうとすると、劉備に「ここにいる民を驚かしてはならない!」と止められました。その時、城内にいる守備軍隊は内部の混戦を引き起こしたため、劉備は「われはここの民を守るつもりであったが、逆に民を害してしまったので、もうここ襄陽に入ることはできない!」と連れて来た民を連れて、江陵へ向かいました。

 行軍して来た軍にとって城を取ろうとする際に、内部から応援者が出たことは幸運なことだと言えます。まして、背後には曹操の軍隊に追い駆けられている状況下で、慌てて逃げているところに、劉備はここの民のために当然奪えたはずの襄陽を取りませんでした。ここからしても劉備玄徳の「仁義の心」がよく分かります。

 劉備は襄陽に入場しなかったため、曹操の軍隊は流血なく襄陽に入りました。劉備の移動中の軍民は合わせると十数万人にも上り、大小の車両は数千台に上り、担いだり背負ったりしてきた荷物は数え切れないほどあります。このような状況下では1日にわずか十数里しか歩けません。しかし、曹操の部隊は迅速に追いかけて、すぐ後ろにまでやって来ています。劉備の将軍たちはみな「一時的に庶民を捨てて、先に行った方が無難です」と提案したところ、劉備は涙を流して言いました。「大きな事をやり遂げる者は人を大切にしなければならない。皆がわれに付き従っており、この者たちを見捨てるわけにはいかんぞ!」と諭しました。後世の人は詩作の中で劉備玄徳のことを大いに称賛しました。

 軍民の行動が緩慢なため、劉備は曹操側に襲われてとうとう殺害されました。混乱の中で、劉備の夫人は息子を守るために、井戸に飛び降りて自害して果てました。張飛、趙子竜は最後まで血戦しました。妻や家臣までもがなんと「忠義の心」が厚いかったのでしょうか!

 劉備玄徳の「義」の現れは、また義兄弟を少しも疑いなく固く信じるところにもみられます。劉備、関羽、張飛は曹操の軍に敗れてバラバラになり、戦乱の中で劉備1人で青州まで逃げおおせ、袁紹に保護されました。関羽は劉備夫人を守り曹営に陥りました。その後、曹操と袁紹は紛争となり、劉備は袁紹のところで初めて曹営にいる関羽を見た時、心の中での第一念は「ありがたや、弟はやはり曹操のところで生きていますか!」と喜んだと言う。関羽が変節(へんせつ・節義を変えること。自分の信念を時流などにこびて変えること)したかどうかを少しも疑いませんでした。普通の人なら、このような状況下で、まったく疑心を抱かないような人物がいるでしょうか?

 劉備玄徳の「義」とは、また「三顧の礼」を尽くして、臥龍岡(がりょうこう)に住む諸葛亮に会いに三度も行って諸葛孔明を訪ねたと言います。劉備は二度、臥龍岡を訪ねても諸葛孔明に会うことがかなわず、心理的な打撃を受けたにも関わらず、少しも不平不満を言わず、次の年の春になって、吉日を選んで3日間斎戒(さいかい・神聖な仕事に従ったりする場合に、飲食や行動を慎んで、心身を清めること)し、沐浴し着替えをした上で、礼を尽くし、三度目に臥龍岡を訪ねてやっと会うことがかないました。これらの事からもわかるように、劉備の賢才と諸葛孔明を敬う誠実さは、姜子牙を招聘した周文王と匹敵するものであると言えます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/23/377548.html)