母の「柳鞭」で子に与えた心の傷を忘れるなかれ
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年12月25日】私の故郷は江南水郷にあり、至る所に水辺があり、この川辺で最もありふれて自生しているのが柳です。柳は植えやすく活着率が高いので、「何気なく柳を植えたら柳にも下陰」という俗語があるほど自生しやすいのです。

 春に柳の枝を切り落として川辺の何処かに挿すと、すぐに根付きます。夏に川の水位が上昇し、また下降して行く時、古い柳の根元に近い幹にはニセのひげ根が生え、童話集に出てくるお爺さんのヒゲのようで、子供達はそれに対して無限に想像をたくましくし広げます。しかし私の小さい頃の記憶では、柳はまた違う別の意味がありました。

 小さい頃、お父さんは出稼ぎで1年中家におらず、母親1人で家の全てを切り盛りしてやらなければならず、孤独で苦しくて忙しく、子供に対する優しさのある感情の投入はほぼ皆無でした。今から思えば時間も、気力も、余裕も、子供に対するこうあるべきだという根本的な考え方も生活に追われ、なかったのが原因だと思っています。母親から見れば教育方針は、すなわち「厳しい先生の下から優れた弟子が出る」や「折檻の棒が孝行息子をつくる」でした。子供に対して特に私は初めての子だったので、棒を用いて教育することが基本でした。

 柳はどこにでもあり、母親はその場ですぐに手に入れることができ、柳の枝を折って葉っぱを除くと人を打つことができます。私はそれを密かに「柳鞭」と名付けました。「柳鞭」で打つと、人は皮が痛いけど肉は痛くなく、人に傷を与えずに人に覚えさせる、というのが母親の持論でした。そうかも知れません。私も子育て中に一度、そうであったと思った時がありました。しかし法輪大法を修煉してから、実はそうではないことに気付きました。

 「柳鞭」で打たれたら肉は痛くないが心は痛み、内臓に傷を与えないが心は傷を受けました。記憶によるとある時、私は打たれ過ぎて家から走り出て、恨みで「ふん、私を打つ、私は今は小さいけど、私が大きくなったらきっと仕返ししてやる」と言いました。「子供の話は忌なし」とは言え、しかし心に隠された気持ちをある程度、察することができるでしょう。

 自分の苦痛に基づき、私も密かに決心を下したことがあります。将来、自分に子供が出来たら必ずその子を打たず、その子を楽しく成長させる! しかし現実の中で、もし法輪大法の真・善・忍の理念の指導がなかったら、子供に対して私もきっと母親の「柳鞭」で打つような繰り返しになり、自分なりに子供を教育し手際がよいと思ったでしょう。その「子供を打たずに、その子を楽しく成長させる」といった決心は、もしかしたら、永遠に実現できない立派な願いに過ぎず、自己満足による自分の慰めにとどまったことでしょう。

 娘が1歳を過ぎた夏に、私は毎日大きなタライで娘を入浴させました。タライに水をたくさん入れてアヒルや小魚などの玩具を浮かべて、娘をタライの中で楽しく遊ばせ、親子とも息がぴったりと合っていました。入浴が終わったらベビーパウダーをはたいてあげました。娘の気持ちよさそうな姿を見て、私も幸せでいっぱいになりました。

 しかしある日突然、なぜか娘は泣いてばかりでタライに入りたがりませんでした。抱いて入れてもすぐに出て来て、また抱いて入れてもすぐに出て来ました。無理やりタライの中に押さえつけても、娘は座ってくれませんでした。最初は私も我慢して娘をあやしながら「ほら見て、魚が泳いでるわよ。わぁー、アヒルが魚を食べようとしてるよ、早く助けてあげて」と声をかけました。しかし私が何を言っても娘は頑として水に触れず、どうしてなのと原因を聞いても言わずに、ただ泣いているばかりでした。

 とうとう私は怒り出し「パチン」と娘のお尻に平手打ちをしました。心では腹が立ち、どうも子供というものは本当に打たなければ、聞き分けがないようだとその時、本気で思いました。

 娘は打たれてやむおえず、おとなしく入浴しました。

 しかし、翌朝起きてすぐに娘の所へ行ってみると、が病み震えているのではと思い、触ってみると娘の体が非常に熱く病んでいました。オーなんてことでしょう。昨日の午後、娘に微熱があって寒くて、水に入ることをあの小さな体で一生懸命拒んでいたのです。これを思うと、私は涙がワーッと出てきました。ああ、子供の聞き分けが悪くて従わなかったのではなく、明らかに私が母親として間違っていた。娘はこんなに小さな体で一生懸命拒んでいたのに、理解してやれず、逆に私は子供の微熱にも気づかず、子供の苦しみもわからず、その挙げ句、娘を打ったりして、従うように諭したりしてしまった。わが娘がこんなに小さな体で訴えている事を全然わかってやれなかった。私はこの時になって、やっと大法の師父が教えてくださった「内に向けて探す」を思い出しました。

 師父は次のようにおっしゃいました。「わたしはこうもお話ししました。われわれ一人一人がみんな内に向かって修め、一人一人がみんな自分の心性から探すようにし、うまくいかなかった場合は、自分に原因を探し、次回はうまくいくように努力し、何をしても人のことをまず考えるようにします。こうすれば、人類社会が良くなり、道徳も回復し、精神文明も良くなり、治安状況も良くなるはずで、もしかすると警察も要らなくなるかも知れません」[1] また、師父は次のように示されました。「日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません」[1]

 ああ、この私が間違っていました。修煉者としても私は間違っていました。母親としても私は間違っていました。確かに私が間違っていました! 私は心で師父に向かって過ちを認めると同時に、わが娘に対しても真心をこめて謝りました。「ごめんね。全部ママが間違っていたよ。昨日は寒くて入浴を嫌がったんだね、ごめんね」と謝ると、娘は頷きました。

 今回の教訓は私にとってあまりにも身に染みました。それからというもの、子供との間に手をやく問題が生じた時、私はいつも師父の言葉を思い出し、冷静になって理知的に問題を処理しました。

 たぶん、娘が小学校2年生の頃のことでした。2年生は正に子供が自分で出かけて人と遊び始める時期で、他の子供達と集まって遊ぶのが特に好きな時期でした。みんな遊びに夢中で、誰も家に帰って宿題をする気がなく、娘も例外ではありませんでした。一時期はいつも私の仕事が終わる時まで外で遊んで、やっと宿題をすることを思い出しました。ある日、私は残業して仕事が終わって、やっと娘を町から連れて帰えり、宿題をさせました。そして私は食事を作りに行きました。

 その時、夫は大法を修煉しているというだけで、ずっと労働教養所で迫害を受けており、私一人で娘の面倒を見てきました。食事が終わりあと片付けも終わって娘の宿題をチェックすると、娘は数文字しか書いておらず、理由を聞いても黙ったままで、どう聞いても何の答えもありませんでした。私はついイライラして怒りが収まりませんでした。物差しを持って来て娘の小さな手を引っ張り、打とうとしました。当時、あのようなイライラした気持ちで力まかせにたたいていると、あの小さな可愛い手に傷をつけていたに違いありません。

 私が物差しを高く持ち上げたその瞬間、娘の冷たい承服しない表情を見て、さっと自分の子供の頃の記憶が蘇(よみがえ)ってきました。そして、師父の教えを一気に思い出させました。「子供をしつける時にも、ひどく怒り、かんかんになる人がいますが、しつけはそこまでしなくてもいいはずで、本気で怒ったりせず、理性的に教育して、はじめて本当に良い子供を育てることができます」[1] それで高く持ち上げた物差しを子供の手の上に軽く落とし、私は優しいけど厳しく、そして少し悲しそうに子供に言いました。「ここでお前を打ちたいがやめておきます。本当はね、物差しで打っても、その悲しみと痛みはこの母の心を打っているのよ。お前に教えますが、遊んでばかりで宿題をしないのは間違っています!」と諭しました。

 思いもよらず、すると娘の硬い表情がすぐほぐれて、「ワー」と泣き出しました。私は娘が心で私の思いを受け取ってくれたことを感じました。そして娘はその日の宿題を順調に終えました。夜ベッドの上に横になって、娘は私の首をギュッと抱きしめ、学校での煩わしい事や私と夫の2人が労働教養所で迫害されていた当時の心の苦しみや葛藤、孤独で寂しかったことを私に訴えました。その時、私達の心はとても近づきました。

 その後、夫も戻って来ました。私達親子は一緒に師父の説法を学び、一緒に直面した苦境に向き合い、一緒に努力して前へ進みました。娘の成績もクラスの四十数番目から一気にクラスで1番になり、娘の担任までがびっくりしました。その後、娘は有名な大学に入りました。周りの人達はみな娘を聞き分けがよく、よく頑張っていると褒めてくれました。そして、娘と私の打ち解けた関係を羨ましがりました。

 この過程で私は親の子供をよく教育したいけど、正しい方法が見つけられなかった時に、心で耐えしのぶジリジリした苦悩をもっと理解できるようになりました。小さい頃、心にうっ積した親に対する恨みを取り除き、もっと穏やかな心で親を理解し、親孝行できるようになりました。ある時、母親は感動して私に聞きました。「法輪功を学んでる人達はみんなあなた達のように良い人ばかりなの? まず、他人の事を優先に考えてるの!」と聞かれ、私は「はい、そうですよ」と答えました。「法輪大法を真に修める弟子であれば、誰でもそうです。私はまだまだですが、私よりもっとよく出来ている人はたくさんいますよ!」

 法輪大法は私達修煉者に自分の欠けている点を気付かせてくれ、問題点を明らかにしてくれます。そして、私達修煉者に気持ちをコントロールする意志の力と問題を解決する知恵を与えてくれ、私達修煉者が一歩一歩明るい未来へ向かうように導いて下さいます!!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『転法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/15/377158.html)
 
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