明慧法会|70歳を過ぎた大法弟子の体験文章
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年5月2日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は70歳の坂を越した大法弟子で、17年間の法を正す進展の中で、師父の慈悲深いご加護と大法の導きの下で、今日まで懸命に歩んできました。自分の修煉体験をここに書いて、師父にご報告いたします。よくないところがあれば、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。

 一、大法と出会う

 私は自分の頑固な観念のために、法輪功を知ってから本当に大法の修煉を始めるまでに、5年という月日を経なければなりませんでした。1994年のある秋の日、帰り道で煉功点に行く隣人の夫婦に出会い、夫婦が「一緒に法輪功を学びに行きましょう!」と誘ってくれました。そこで私は「どちらにしても同じ方向なので行こう」と思いました。煉功点に着くと、ちょうど第二式の功法の抱輪の動作を修煉していました。自分のいる周辺を探し、その場所に立って他の人について煉功して手を持ちあげると、誰かに前に走るように押されている感じがしたので、「これではいけない」と思いました。そこで、人々から少し離れた場所を探して、他の人について煉功しました。第四式の功法まで煉功した後(隣人の夫婦は病人で、夫は厳しい心臓発作があり、いつも救出されていたことを知っていた)、隣人の夫婦に「奥さん、この功法は大変すばらしいので、くれぐれも離れずに煉功を続けていく必要がありますよ。3カ月しないうちにあなた達が健康になることを保証します」と言いましたが、私自身は二度と煉功点に行くことはありませんでした。

 1995年のある日、早朝練習(その時は太極拳をやっていた)後、家路をたどっていると、一部の人が座禅をしているのを見て、好奇心に駆られたので、脇に座ってその人たちを真似て座禅すると、持ち上がり漂うように感じました。煉功をした後、その人達に「こんなにすばらしいなんて、これは何という功ですか」と聞きました。すると「法輪功です。ちょうど今日はお金を払って書籍を申し込む日ですので、あなたも40元払ってください、先にお金を払って、後で書籍をお渡しします」と言われ、「お金を払う」と聞いて「これもまたペテンで、質問した途端にお金を払うよう人に要求するなんて」と思い、機嫌が悪くなり、二度とその場所には行きませんでした。しかし今回初めて気づいたのは、早朝練習の場所の周りはすべて法輪功の修煉者で、功法を展示するたくさんの垂れ幕がかかっていたことでした。

 しかしそれからは、法輪功の垂れ幕を見る機会はありませんでした。1998年9月のある日の正午前後、仕事(仕立て屋を開いていた)をしていた時、眠たくて眼も開けていられず「どうしたというのだ、こういう現象は今までなかった」と思いました。というのも、昼間寝る習慣がなかったからですが、しかし、ミシンから離れないうちに眠ってしまいました。すると、堂々たる英雄の気概を持った大神仙の2人が、私の腕をつかんで走り出したので「何をしようとしているのですか? 私を連れてどこへ行くのですか?」と叫びました。すると、左側の大神仙が左手で前方の下方を指さしながら「瑠璃川を渡ります」と言いました。そこで「瑠璃川とは何ですか?」と尋ねると、大神仙は「そこへ行って見てみれば、わかります」と言いました。

 川のそばまで来て見てみるとなんとそこには母親がおり、川の水は完全にとがったガラス片で、まるで打ち砕かれた車のガラスのようでした。頭をあげると銀河系があり、振り向いて見ると、人間の世界からすでにはるか遠くに来ており、人間世界を見ると黒い煙で充満して車の往来が盛んで、一寸の背丈の高さの小人がまるで地上を往復して歩き回っているかのようでした。こんなに遠いのでは帰れないと思い、頭を下げて見てみると、上靴しか履いておらず「これでどうやってこの川を渡るのだろうか! ガラスが足に滅茶苦茶に突き刺さるのではないだろうか?」と思いました。すると、神仙たちがまた私を急き立て(せきたて)ました。そこで「ここを渡るのですか! どうやって渡るのか考えなければ」と言うと、神仙が「何も履かずにここを渡る、上履きも脱がなければならない」と言いました。靴を脱げと言われたので脱ぎ、もう捨て身になるしかなく、追い込まれていました。左右とも上履きを放り投げ、どうやって渡るのかと見ていると、頭をあげて横になって渡り出しました。前方の空は低すぎて場所が小さいので楽(らく)ではなく、右前方に向かって斜めに渡っていくと、空は高く地は広がり、さらに空には大きな輪がかかっており、左に回ったり右に回ったりしてとても楽で、そこまで上がって、ふと気がつくと川を渡り切っていました。

 すると、そばにいた大神仙はいなくなっていました。この時、前方は見渡す限りの湿地帯だったので、私はがっかりして涙を流し、後悔しました。というのも、ここから一人でもう帰れなくなってしまい、生きるも死ぬも前へ進むしかなかったからです。まっすぐ歩いて行きましたが、歩けば歩くほど下へ陥没していったので、私は怖くなりました。このままだとこの中で死んでしまうので、何とかしなければなりませんでした。そこで、腹ばいになって外へ這い出ようとして、縁から西に向かってとても長い時間をかけて這い上り、上にたどり着くと、高さが1メートルで幅が5センチの小壁があり、壁の上には鉄のとげのある垣で作った鉄条網の壁がありました。鉄条網の壁につかまりながら5センチ幅の小壁の上に立つと、少し艱難な前進が予想されました。途中で多くの苦しみに会い、どれほどつらくても後退しませんでしたが、順調に通り抜けたとは言えませんでした。少し休んでから立ち上がり再び歩いて行くと、今度は前面に水晶石が九つ現れ、緑色で透明でピカピカと輝いており、私は「どうすればいいのか?」と心配になりました。

 すると突然、小さい頃に聞いた神話の物語を思い出し、天女が俗人に出会い、4年後、天女は天に帰りましたが、天女が出かける時に夫が「いつもう一度、お目にかかれますか」と尋ねると、天女は「真心をこめさえすれば会えます」と答え、話し終わるとすぐに行ってしまいました。さらに2年が経ち、夫は必死に妻を想い、天女に会いに出発しましたが、中途で九つの水晶石の山にぶつかり、その時、夫は「自分では解決できない」と思ったので、「妻よ、今生今世で再び会えないことが心配ですが、私はこの山の前で死にますので、来世で会いましょう」と言いながら、水晶石の山に触れて無意識に頭をなでると、自分が死んでいないことがわかりました。頭をあげてちょっと見ると門が現れ、続いてその門が全開すると、夫は水晶石の山を越え、自分の望みを実現したのでした。

 この神話物語を思い出した後、私は決心し、その夫が水晶石の山を越えられるなら自分にも出来るはずだと思い、這い上がり始めました。手を出すと雁木(がんぎ・道から川原などにおりるための、棒などを埋めて作った階段)が出て来たので、大きな輪より人2人分高いところまでずっと這い上がった時、雁木がなくなってしまったので、また涙を流し、絶望に満ちて「もうこれで終わりだ、これ以上本当に上がれないし、降りてもいけない」と言いました。すると、大神仙がやって来て「こちらに来てください、手伝いましょう」と言い、同時に手をかざしたので、私が大神仙の手の中に立つと、大きな輪の上に送ってくれました。私は天国に到着したように感じ、うれしがっている間に戻って来ました(この前後の時間は、3秒間で全ての過程を歩んだのでした)。

 私は「これから歩む道について、神が私自身に選択させ、これは神が私を率いて神の道を歩んだのだ」と思いました。しかし、私は仕事が手に付かなくなってしまい、座ったままで考えましたが、どう考えてもわかりませんでした。

 私が困惑していた時に、同僚が服を作ってもらいに来ましたが、私が「間が悪いことに、今はやる気が起こらないのです」と言ったので、同僚が「なぜですか?」と聞きました。そこで、同僚に「さっき変な夢を見たのです」と言って、全過程を同僚に一通り説明しました。すると同僚は「あら、法輪功と縁が深い方ですね! あなたが行った場所は法輪世界かもしれませんよ」。そして同僚は私に法輪功を学んでみさせようとしました。しかし私が「今は行きたくないので、まず本を借りて読んでみたいです」。そこで、同僚は「いいですよ、取りに行ってきます」と言うので、「私も一緒に行きましょう」と申し出ました。

 持って帰った本は全部で13冊(そのうち修煉の話が2冊)で、1週間をかけて飲まず食わずで読み、この間ほとんど眠らず、泣きながら何回も読みました。そして、一生を通じて何度考えても理解できなかった謎がすべて解かれました。本を開いて師父の写真を拝見した時、思い切り泣き「この方は一生を通じて探し続け、待ち続けた方ではないのか?」と思いました。夢の中の大神はこの方だったのではないでしょうか? 「私の悟性が低すぎるのですが、私のような意気地のない弟子をどうかお引き受けください! 師父、必ずしっかり修煉しますので、私の方面の者と物事すべてにけりをつけるまで、3カ月間時間をください」。文化大革命後期にどんなものでも練習し始め、さらに太極拳を20年間やったので、体が乱雑になっており、これらのものは連れてきたくないし、連れて来てしまったら修煉できなくなってしまいます。敬虔(けいけん)に跪(ひざまず)き「必ず師父について行き、何ものも恐れず法輪功を学びます」と師父に誓いを立てました。

 その頃、師父は私のために身体を浄化し始めてくださいました。しかし、多くの障碍にも遭い、家族や同僚が私に修煉させませんでした。そこで家族に「あなた達にはもう手を出せません。なぜなら、私の歩む道がわかり、自分が何を求めていたのかが、はっきりとわかったからです」と伝えました。このように言えば、誰も止めることはできないと思いました。そして「必ずしっかりとなくしたものを取り戻し、師父を心配させません」と強く思いました。

 修煉を決定すると、時々刻々に試練が伴ってきました。最初の試練は利益心でした。はっきり覚えているのですが、ある時、本屋へ行き、大法書籍(当時はまだ公に売られていなかった)を頼みました。ある本屋がまだ大法書籍を売っていると聞き出したからです。それは海賊版でしたが10冊ほど頼み、家に帰って数えてみると、本屋は2冊分のお金を少なく受け取っていました。私は「それはいけない、私は大法を修めているのだから、お金を返さなければならない」と思い、すぐに返しに行くと、店主は感謝し、師父の写真を1枚くれたので、私は喜んで受け取りました。

 続いて、生死の試練を乗り越えました。ある日、第五式の功法の座禅を煉功して、ちょうど入定した時に、警官が警棒を手に持って私の左足を蹴りながら「立て、立て」と大声で言いました。そこで、私は目を開けて「何をするのですか? 私を蹴って何をするのですか?」と言うと、警官が「修煉させないのだ、わからないのか? 頭を上げて前を見ろ」と言われ、無意識に頭を上げると、大法弟子が並んで首をはねられている姿が前方に見え、左から右へ順番に首をはねられていました。そこで私は「首をはねてはいけません!」と言っていると私の順番が回って来て、警官が再び私を呼びました。少しすると、また警官が私を蹴って来たので「どうしてまた私を蹴るのですか」と言うと、警官は「お前の番が回って来た」。そこで私は「それなら首をはねなさい、私は動く必要がありませんから」と言うと、警官が手に持った刀を打ち下ろすと、私の頭が落ちて血が遠くまで飛びました。しかし、私の体は全く動かずにそこで座禅しており、元神がひょうひょうと左から飛び去って行きました。出定した後、とてもうれしくなり、この生死の関を越えたのは、まあよく出来た方だと感じましたが、「これはしかし、とてもリアルだった」と思いました。

 二、精進し着実に修煉する

 3カ月後の1999年1月1日から、正式に法輪大法の修煉を始め、毎日煉功点に行って煉功し続け、家に帰って自分で法を勉強し、師父が法を伝えるビデオを見ていると、毎日うれしくなり、より多く本を読みたくなり、1篇読めば1篇を覚えました。

 ある同修が私に「あなたの方法は有為なのではありませんか? 求めずに自ずから得なければなりません」と言われ、よく覚えていませんが、私は2、3日の間で1篇を読んでいました。この間に、師父は私の体を浄化し、灌頂してくださると、体の具合が非常に良くなり、熱い流れが本当に全身を貫き、体がとてもリラックスして、階段をのぼる時も本当に誰かに押されているかのようでした。法輪功を学び始めたのが遅くなり過ぎた、といつも感じていましたが、失った時間をカバーしているのだ、といつも思っていました。

 この間に、非常にはっきりとした夢を見ました。多くの同修と共に大船に乗りましたが、風がなく、船はすでに人でいっぱいで、これ以上乗ることは出来なかったのですが、すると「出――航!」という声が聞こえてきました。そして、とても明るいと感じ、東へ西へと船は無軌道に進んで行き、船の真ん中まで駆け付けた時、船は荒波をついていくうちにとんぼ返りを打ち、そばにいた同修がぱらぱらと落ちていく音を耳にしましたが、その時、私は何も考えていませんでした。どれくらい時間が経ったのかわかりませんが、船は先へ進まなくなり私は息を吹き返して目を開けると、緞帳が徐々に開き、そこへ太陽が昇って来て、うららかな日和でした。頭を下げて下を見ると、3分の2の人が落ちて行くのが見え、私は涙を流し・・・ここで目が覚めました。

 大難が来臨したことを知りました。「ここで退却してはならず、上に向かわなければならない」と自分をたしなめました。「7.20」から同修が捕まり始め、その後、同修に会えなくなり、煉功点には二十数人がいましたが、半分以上がいくらかの書類を提出し、また、ある同修はいわゆる「保証書」を書いて煉るのをやめてしまいました。しかし、私は書類を提出せず、誰も私に保証書を書かせようとはせず、なぜなら私が修煉に入って来たのが遅かったからで、私を知っている同修が少なかったからです。この時「待つことはできない」と思い、在職中の小同修を見つけ出して自分の考えを話すと、小同修は「ガリ版を切ることができますか?」と聞いてきました。そこで私が「ガリ版の事は知りません。私は5年半勉強しただけです」と言うと、小同修が「私が教えます」と言ったので、「わかりました」と答えました。

 私はガリ版を切って真相を書き始め、自分でプリントして自分で配ると、その後、小同修は怖くなり、仕事を捨てて引っ越してしまいました。小同修の助けがなければだめで、仕事がとてもゆっくりになってしまいました。それで、再び自分でいろいろ考え、市場へ行ってナイロン生地をまとめ買いし、さらに筒式のペンキを買い上げ、自分で小さな垂れ幕を作り、自分で外へ出てあちこちに掛けました。が、そのことを人に隠すようなことはしませんでした。その後、同修と接触し、同修は私と共に真相シールを貼りに出しました。

 ある時、100枚以上のシールを持ち、空がまだ暗くならないうちから貼りに出て、駅や電柱にはすべて貼り、道中、パトカーがうろうろしているのに出会いました。少し行ったところで監視人を見つけましたが、自分のしたことと関係がなく、まるで自分には関係ないようなふりをして貼り続け、あと3枚で貼り終わるところまで、こじつけました。

 その時、前方の小さな立木から、30歳代で身長が1メートル80センチの若者が出て来て「何をやってるんですか?」と聞かれ、私には思いもよらなかったことだったので「標語を貼っていたんです」と答えました。すると「どんな内容ですか?」。「自分で見てください」。すると「こちらへ来てください、話したい事があります」。そこで「何かいい話でもあるのですか、歩きながら話しましょう」。すると「止まれ!」といきなり言ってきました。ちょうど青信号だったので、メーンストリートを走って渡ると、すぐに赤信号に変わりました。

 この時「まだ残り3枚あるので、持ち帰ることはできない」と思いました。私がまた続けて貼っているのを見ると、その若者は走って追いかけて来ましたが、私も貼り終わったので走ったのですが、その若者が後ろから「逃げられないぞ」と叫んで追いかけて来ました。ふり返り見てみると、まだ10メートルも離れており「そこに立ったまま動かないで、あなたは追いつけません」と心で言いました。パンプスを履いたまま500メートル走って曲がると、道の左側ではたくさんの人が焼肉を食べていました。

 右側の小さな木の後ろは胸壁になっており、その若者は「彼女をつかまえろ」と叫んでいたのですが、どうしたものでしょうか? 何とかしなければならなかったので、小さな立木の後ろに隠れてしゃがみ込み、アウターを脱いで、スカートのポケットに入れ、結んでいたロングヘアを解き、あらかじめ準備をしておいた眼鏡をかけ、ブラウスを着て完全に違う人になり、帯を締める動作をしてニコニコしながら悠然と出て行きました。道のへりから2歩離れた所で、ちょうど歩道に立ってあちこち見ていたその若者とぶつかりました。その若者は笑い、私も笑いましたが、その若者は私を見分けられず、この時になってはじめて、その若者が標準的な警官の身なりをしていることに本当に気づきました。その若者はトランシーバーと警棒を持っていたので、事の重大さを感じました。

 その時は緊張のあまり恐ろしさをそれほど感じていませんでしたが、その後、思い出しても恐ろしくなり、家について師父に「救ってくださって、ありがとうございました。知恵を与えてくださって、ありがとうございました。師父、私が間違っていました。師父にご心配をおかけしてしまいました。これからはこんなやり方はもう致しません」と申し上げました。ものすごい張り切りようと闘争心もあいまっていたのですが、これではめちゃくちゃにやっていたのと同じではないでしょうか? これで成就できますか? これは1日やそこらの出来事ではありませんでした。これに類似した事に何回も遭いましたが、今までは間一髪で何ごともなかったのです。これはほんの一例です。

 三、法を書き写し 暗記した法を念じて心性を修める

 こんなにすばらしい法は暗記しなければならない、と思いました。私は法を自分の生命とみなしており、第二の生命をくださった師父の慈悲な済度を無にしませんでした。2001年から法を暗記することを試し始めましたが、方法が間違っていたので、覚えようと思えば思うほど覚えられず、なぜならそれは法なので、常人の学問ではなかったからです。そのため、1年という時間を費やしても1講も暗記できず、何回も暗記しようとしましたが覚えられず、あきらめました。しかし、私は悔しがり、やはり暗記したいと思いました。

 2004年になり、師父に向かって跪き「どんなに難しくても頑張って暗記し続けなければなりません」と誓いを立てました。「なぜ以前は1年に1講も覚えられなかったのか」と考えると、それは「1講を覚えれば1講を覚えたことになる」と思っていたからです。そしてそれは執着を持って求めながら暗記していたため、暗記できなかったのです。今回は、この心を放下し、第一講から第九講まで通して暗記し、何度も通して暗記しました。しかし、12回暗記したところで諦めたくなり「法を暗記することは確かに難しい」と思いました。

 しかし、師父に誓いを立てたので放棄することを躊躇し「約束を果たさなければならないので、どんなに辛くても持ちこたえなければならない」と思いました。気が付くと、法がすでに知らないうちに頭に入っており、後ろから逆に暗唱することはできませんでしたが、すでに法をしっかり覚えていました。問題が起きた時に法の指導に照らし合わせて修煉すると、何をするべきで何をするべきでないのか、何が正しくて何が間違っているのか、がわかりました。法が私の知恵を開いてくださり、法が勇気を与えてくださり、頭の回転が速くなり、法理がはっきりしたので、手際よく真相を伝えられるようになり、さまざまな急な危険にも対応できるようになりました。

 法を暗記することに満足していなかったので、2006年から再び法を書き写し始め『轉法輪』を毎年1回、暗記しながら書き写し、今までずっと書き写して来て、2007年から2012年まで、師父の各地での説法が発行されると1冊ずつ書き写し『洪吟』『洪吟二』『洪吟三』の歌詞はすでに心の中で暗記してしまい、『洪吟四』は4回書き写し、10回読みました。新経文が発行されると少なくとも10回は読み、短い経文は16回心の中で暗記し、法を写し暗唱する中での収穫が実に大きく、同時に心性も向上し、昇華しました。

 ここで、例を挙げます。

 ある時、心性が向上するまで法を暗記した時、ちょうど家庭と関わらなくなくなっていました。給与カードのことでケンカをし、すでに半月の間何も言わなくなくなっていました。私が資料にお金を使ってしまうことを夫は恐れ、1銭も私にくれず、私の時給はずっと夫が直に渡していたからです。その頃の私は「夫は私に時給をくれなければならず、必ず取り返さなければならない」と思いました。もともとこの法はすでに詳しく暗記していたはずで、一度記憶を固めるだけのはずだったのですが、その時はどうしても暗記できず、暗記して心に刻もうとすればするほど暗記できる量が減り、最後には一言も覚えていられなくなりました。そこで「今日はどうかしたのだろうか?」と思いました。言も覚えられず、それ以上暗記できなかったので、暗記を止めて原因を捜そうと思いました。ひょいと頭を上げると「心性向上」の4文字が見え、心性を向上すべきなのだと急に思いました。あちら側では喧嘩をし、こちら側では法を暗唱するなど、これらのことは師父の法に全く合致していなかったのです。

 師父は「ですからわれわれは自然に任せるように言っているのです。時に、それが自分のものだと思い、他の人もあなたのものだと言ってくれても、実際はあなたのものではない場合があります。あなたは自分のものだと思い込むかも知れませんが、最後になるとあなたのものでなくなります。その点から、そのことに対してあなたが無頓着でいられるかどうかを見ますが、無頓着でいられなければそれは執着心なので、この方法を用いて利益にこだわる心を取り除かなければならないのです。そういうことです」[1]と説かれました。そこで師父に「納得しました、もう要りません、彼とはもう喧嘩しません。もしかしたら前世で彼に借りがあったのかもしれず、この方法で彼に借りを返しているのでしょう」と申し上げました。振り返って、再びその法を暗記しようとすると、すでにしっかりと覚えており、現在まではっきり暗記しています。
 心を放下すると、心性が高まり、功もそれにつれて高まり、環境も変わりました。そこで、私は夫に「納得しました、給与カードはいらないのであなたに返します、もしかしたら、あなたに借りがあるのかもしれず、これであなたに返しました」と伝えました。すると、夫はにっこりしながら「私も納得しました、給与カードはやはりあなたに渡しておきます」と言いました。そこで「本当に私に給与カードを渡すことを望んでいるのですか? それなら資料を作り人を救うのに毎月100元ください。これはあなたの威徳ですから、給与カードはあなたに返却しますね」。すると夫は「いいですよ」。こうして私が勝ち取ったのはお金ではなく権利で、大法を修める権利だったのです。夫ももう私に関わらなくなり、その時になって数百元の時給を得ました。師父は「煉功の時にあれこれと妨害が現われてきた場合、まず自分自身から原因を捜し、まだ何か捨てなければならないものがあるのではないかと考えるべきです」[1] と説かれました。

 四、真相を伝える時 あなたに関心を持っている人を傷つけてはいけない

 真相を伝えることを楽しみにしており、毎日物語があり、いくつかの例を列挙します。ある時、年配の女性に真相を伝えると、その女性は真相を聞きたがり「三退しなければならない」というところまで伝えた時、その女性は家へ帰るため、自転車に乗りってすぐ角を曲がってしまいました。家に帰ってとても後悔し「なぜあの女性について行かなかったのか、どうしてこんなに自分勝手なのか、彼女について行ったら三退したのではないか?」自分が恨めしくなりました。このように自責の念に駆られたので「これ以上縁のある人を失いません」と師父に誓いを立てました。すると半月後、またその女性に会い、その女性の家族3人も全員喜んで三退し、師父の按排に感謝しました。実際すべては師父がなさっており、私はただ師父の按排に従っただけです。

 ある時、法輪功迫害の真相を伝えながらバス停でバスを待っていた時、41歳の女警官に出くわし、その警官はとてもきれいだったのですが、体にあまり合っていない制服を着ていました。私は「この警官に真相を伝えなければならない」と思いました。そこで前に出て話しかけ「あなたはきれいなのに、どうしてそんな服を着ているのですか? あなたのきれいさが台無しです」と言うと、その警官は厳しい態度で「私は警官です、制服を着ないで何を着るのですか」。そこで私は「今日は日曜日だから、若いあなたは素敵な服に着替えたらどうです。老いるとチャンスがなくなりますよ。今、あなたの勤務先はどこですか?」と聞くと、警官は「刑務所内で働いています」。私は「あなた達のところに法輪功の修煉者はいますか? 私の親戚が法輪功の修煉者で不当に刑務所に拘禁されましたが、彼女はみなとても善良な人ですから、この人に会ったらよく遇しなければなりません」

 だがしかし、女警官はつっけんどんに「あなたも法輪功修煉者ですか、それならあなたを捕まえて刑務所に送ることも出来るわけです。もちろん、信じようが信じまいがあなたの勝手ですが」。そこで私は「もちろん、信じますよ。お姉さん、実際、あなたは若くてきれいで、善良なのでこの事を伝えますが、あなたが悪い事をして自分を害してしまうことを一番恐れているのです。もし本当にあなたを救うことができるのなら、いいえ、あなた1人だけでなくあなたの家族全員を救うことができるのなら、私を刑務所に送り、数年刑務所にいるのも価値があると思います。私は胸の内を打ち明けているのです。私の甥も警官で、法輪功を迫害しないように伝えましたが彼は聞かず、結局、今は罰が当たり、50歳で出世したい時期に、もうすでに仕事ができない状態になってしまいました」

 すると、その女警官は「あなたの甥とは誰のことですか?」と聞くので、甥の名前とどこで働いているかを伝えると、女警官は信じました。そこでさわやかに「お姉さんはとても善良な方ね、今は私たちの所には法輪功の人はいません。以前はいましたが他の場所に回され、私たちの所にいるのはみな死刑囚と重罪人だけです。私はオフィスワークをしていますがあなたを信じます」。続けて私が「あなたはきっと党員でしょうから、脱退させてあげましょう」と言うと、その女警官は「いいですよ」と言って、バスを降りて出て行く時、息子も党員で北京大学に通っており、息子も脱退させたい、と女警官が言いました。

 ある警官は私が真相を伝えると追っかけるように三退し、ある警官は避けました。しかし、三退した警官も多く、現職の警官や引退して顧問の地位についている警官、定年退職した警官、私服警官などさまざまな人達が三退しました。

 団地では一度出会えば、必ず真相を伝えています。三つの団地に滞在したことがあり、どこでも告発されましたが、やはりどこへ行っても真相を伝え、二つの団地では何度も私を探しに来ました。

 一つ目の団地が最初に私を探しました。それは高蓉蓉さん(訳注:2005年6月に迫害されて亡くなった法輪功修煉者)が指名手配された時で、私も通報されました。当時はいたるところに「法輪功修煉者を1人告発すれば500元、その場で1人捕まえれば1000元を褒賞する」と到るところに貼ってありました。

 ある日、団地の主任が夫にあってこの件について話し、主任は示談するように勧めましたが、私は同意しませんでした。次の日、夫に内緒で団地に行きました。すると、主任は私に「よく来てくれました。ちょうど今、ある人があなたを通報し、彼女は500元欲しがっていますが、1000元まではいらないそうです。彼女はあなたを捕まえると言っていますが、団地の名誉のために、彼女に500元を渡してください。でなければ、あなたのことを警察署に届け、あなたを捕まえてもらう、と言っています」。

 そこで私は「主任、聞いてください。私は自分の命を500元では売りません。お金がないと彼女が言っているのなら、彼女に会わせてください。そうすれば彼女に1万元渡してもいいです。私は自分が言ったことは守ります」。私が話した声がめっぽう大きかったので、主任は「もっと静かに! ここには警察官がいるのですから」と注意しました。私は「警官が聞いても構いません」。すると主任は「あなたのそのような態度では解決できません。私はあなたの考えを彼女に伝えることしかできません」。私は「それならもういいです。どうもありがとう」と言ったきりで、この件は尻切れとんぼに終わり、誰も私を探しに来なくなりました。

 二つ目の団地では何度も私を探しに来て、誰かが私を探しに来る度に、私は真相を伝えていました。今から私が話すのは、最後に私を探しに来た時のことです。

 私を探していると聞いたので、私は行ってみました。建物に入ると、主任が「よく来てくれました。誰かがあなたのことを通報したので、確かめなければなりません」。そこで私は「では、話してください」。以下は私たちの会話です。

 主任「あなたが団地でチラシとDVDを配っていると、ある人が言っています」

 私「団地のものは私が配ったものではありません。なぜなら団地の通路に捨てられてしまうので、とても残念だからです。私が配っているものは人を救うためのものですので、浪費できないのです」

 主任「それならどこで配っているのですか?」

 私「人がいる所ならどこでも行って配っています」

 主任「誰に配っているのですか?」

 私「欲しい人になら、誰にでも配ります」

 主任「欲しがる人がいるのですか?」

 私「こんなにいいものをどうして、欲しがらない理由がありません。そこに行けば、みんな奪い取るように持って行きますから、持って行った分だけ全部配ってしまいます」

 主任「それなら今日も行ったのですか?」

 私「行きました」

 主任「それなら今、手元にまだありますか?」

 私「ありますよ、欲しいのならDVDを2枚あげましょうか」

 そしてDVDを2枚出して、主任の机の上に置きました。私の話声はわざと大きく、それは室内に他に何人もの人がいると思い、その人達にも聞かせたかったからです。

 すると、主任は驚いて話し声まで変わってしまい、手を震わせながら「早く持って帰ってください。私は何も見なかったし、これからはもうあなたを探しませんから、あなたも私を探さないでください。また、私を説得することはできません」と言いました。

 数年が過ぎましたが、それ以降、主任は私を探さなくなりました。

 オフィスの前任の7人のうち5人が「三退」し、いまの7人の中ではまだ1人だけ三退していません。何年か前、法輪功を誹謗中傷するために、オフィスの前任者が戸別ごとに署名をもらい、保証書を書かせたことがあります。私はオフィスの前任者たちに法輪功の真相を伝えると、人から署名をもらうことはしなくなりました。ある時、大法を誹謗中傷する本を各家庭に2冊ずつ配っていたので、オフィスの前任者たちに会いに行って真相を伝えると、配らなくなりました。そして、大法弟子に対して不利なことはしなくなりました。

 ある時、朝市で迫害の真相を伝える資料を配っていた時、ある中年の男性が怒ったように毒づきながら「あなた達はどうしてこのようなことをするのか?」と叫び、どのように説明しても、その男性は乱暴するような様子を見せたので、私はニコニコしながら「命がけであなたを救います」と言うと、その男性は興奮することなく、静かに私に「こんなことをして、あなたの家族がどれだけあなたを心配しているのか、わからないのですか!」。「この男性は大法弟子の家族だから、私を心配して言っているのだ」とわかりました。そこで私は「私のために心配させてしまい、ごめんなさい」。するとその男性は「安全に気をつけなければいけませんよ!」。この出来事に感動し「しっかりと行い、家族を傷つける事を軽減しよう、この事をいつも忘れずにいよう」と誓いました。

 法輪功の真相資料を配り迫害を伝える中で、ある人が私の手から資料を取って配り、配りながら「みなさん、法輪功を信じましょう。中国共産党を信じてはいけません」と叫んでいました。また、ある人は私に会うと「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」と声高らかに叫びました。また、ある時、資料を配っていると、1人の人は私の手の中の資料を取って、資料を頭上に持ち上げ、頭上で資料を振りながら「見てください、中国最大の新聞です!」と大声で叫んでいました。また、ある人は私を食事に招こうとし、ある人はタクシーに乗せて送ろうとし、また、脅かされた時には、誰かが私の窮状を打開してくれ、また、ある人は安全に注意するよう言ってくれました。こんなにも多くの心の優しい人達が励ましてくれていました。なので疲れを気にかけず、日数を重ねて真相を伝え人を救い、場所や環境を選ばず、焦らず恨まず、心優しさを持ち続けられました。

 五、迫害の真相を伝え、法輪功の真相を広める中で現れた神の奇跡

 1.ある時、都市部と農村部の隣接地域へ行って迫害の真相資料を配った時、100部以上の資料を持って行きました。自転車での往復行程は1時間以上を要しますが、3カ所で配った後、家に帰ると、たった45分しか経っていませんでした。私はわが目を疑い、たくさんの時計を見合わせましたが、確かに45分しか経っていませんでした。私は心の底から感動し、道理で道を走っている時に、両耳に馬を走らせている時のようなさわやかな風が吹く感覚があったわけです。車の横を走っていた時に、周りに無形の障壁を感じていました。これは他の時空を走って来たのだ、と思いました。

 2.師父が水を届けてくださいました。ある時、北京行きの切符を買いました。しかし、北京へ行く前に、夫が切符を見つけて持って行ってしまいました。家に帰ってから、切符がないことに気づき、家の中には他に誰もいないので、直接夫に切符を返すように要求しました。なぜなら、それは私1人分の切符ではなく、2人分の切符だったので、取り返さなければならなかったのです。しかし、夫は切符を帰さず「焼いてしまった」と言いましたが「焼けるわけがなく、私に渡さないだけだ」とわかったものの、早く行かないと電車に間に合いませんでした。そこで私は窓を開けて外に向かって「北京へ行かなければならないので、切符を返してください!」と大声を上げました。すると夫は驚いて、上がって来て私にビンタし、私を外にある部屋に押し込めて、扉に閂(かんぬき)を掛けてしまいました。

 しかし、どこから来た馬鹿力なのか私にもわかりませんが、足でけって扉を開けました。私が焦っており、諦めないのを夫は見て、切符を私に返し「警察署の警官に頼んで手錠をかけて、迎えに行かせます」と捨て台詞(すてぜりふ)を残して去りました。夫が本当にそのようなことをするのではないかと恐ろしくなったので、切符を同修に送り、別々に行きました。駅に着いたのはちょうど12時で、電車が発車する10分前でした。席に座ると「師父、こうしたのは間違っていましたか、初めから終わりまで我慢できませんでしたが、もしこうしなければ行けなかったのです。ですから師父、どうか私を許してください」と言い終わると、左側の上の方から誰かが水を1本差し出してくれました。ペットボトルの青いふたに脈動を感じ、水をもらって、誰がくれたのかと振り返ると、振り返るが早いか、師父が少しくるりと身を返され、左後ろの上の方に向かって屋根に隠れて行かれるのが見えました。その時、周囲に人がいるのも構わず、感動して泣き声を上げて大泣きしました。時間になって同修がやって来たので、私は涙しながら「私は間違っていませんでした」と言いました。

 3.師父が助けてくださいました。その冬は最も寒く、最低温度は氷点下34、35度に達しました。ある時、資料を送る途中で、8階建ての建物の下を歩いていました。風がとても強く、8階建ての建物の屋上からアスファルトを熱くしてから作った大きい渡り板の一部が吹き飛ばされ、私の頭上めがけて落下してきました。しかしその瞬間に、すぐに大きな力がオートバイごと私を道の向かい側に連れて行きました。ふり返り見ると夜の9時頃に通りに誰もおらず、師父が私の命を救ってくださったのだとわかりました。私は感動して涙を流しました。

 4.師父が大きな桃を食べさせてくださった。ある時、迫害資料を届けるために、朝7時過ぎに家を離れ、午後2時に帰りの路上にいたのですが、目眩を感じて眼がくらんできて、お腹が空いてたまりませんでした。朝何を食べたのかを考え、正午を過ぎたばかりなので、こんなにもお腹がすくはずがありません。早朝にご飯がとても熱かったので、「しばらく冷ましてから食べることにして、先に持って行くものを準備して、服をきちんと着てから食べよう」としたことを思い出しました。しかし、服をきちんと着てからすぐにドアを開けて出かけてしまい、完全にご飯を食べるのを忘れていました。このように思っていると、目の前に水もしたたる大きな桃が現れました。どこから来たのかを考えることもせずに、つかんでひと口かじりました。わー、ほんとうに甘くて美味しい! 目をつぶって食べ、嚥下してからもう1口食べようと思い目を開けると、すでに桃はなくなっていました。すると、エネルギーが頭のてっぺんから下りて来て全身を貫き、さっきまでのお腹が空いている感覚は全てなくなり、少しも疲れを感じなくなりました。

 私は文章力がないので、この体験文章は日記のようなものです。私は残された最後の道をしっかり歩み、師父について家に戻ります!!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 (明慧ネット第13回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/5/336968.html )
 
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