「年を取っている」の考えは 人間の観念である
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文/中国の大法弟子 暁芸

 【明慧日本2019年6月3日】ある日、1人の同修に会いました。同修は「あなたはどうして、そんなに年を取った容姿になってしまったの?」と言いながら、猫背で歩いていた私の姿を見て、とてもおかしいと言いました。その言葉に驚いた私は、どうして年を取った容姿になったのかと考え、疑問に思いました。当時は、あまり深く考えませんでしたが、自分がしっかりと修煉していないのが原因だと思っただけで、これからは、背筋をピンと伸ばすように気をつけ、同時に精神面でも気をつけようと思いました。

 しかしその後、夫にも何回も何回も家事をやる時でさえ、「背筋を伸ばして」とよく注意されました。その言葉を聞いた私は、その場では「はい」と答えましたが、心の中では「なぜ同じことを何回も言うのだろうか?」と不満に思っていました。どう考えてもどこに問題があるのか、さっぱり分かりませんでした。娘の所へ行くと、娘にも時々「ママ、背筋を伸ばしてね」と注意されました。どうしたらよいのか、とても困りました。実際に私も法を実証し、正の作用を果たすためにも、例えば、親友達の中で人を救い済度する時も、実際の自分の年齢より若く見えるように行動しようと思っています。しかし、修煉が良く出来ていないせいか、修煉者としての自分の形象は見えていませんでした。

 ある日、入れ歯を外して歯磨きをしようとした時、娘が「ママの顔とてもかわいいよ!」と言ってくれました。何の考えもなく「私はもう年を取っているから、かわいくないわ!」と思わず口から出てしまいました。言った途端に、この言葉は正しくないと気づきました。しかしこの言葉は、今まで口癖のようにずっと言っていました。娘は続けて「ママの顔の両サイドに、白髪が出てきたね」の言葉に、また「年を取ったからだよ」と言ってしまいました。それでもその時は、この言葉は「人間の観念」であると認識できていませんでした。悟らない自分を見て、師父が同修の言葉で悟らせてくださいました。

 「生老病死は常人の理」です。修煉者は常人の理を越えるべきです。大昔から、性命双修の功法であっても、数百年も修煉し続ける必要があるのはごく普通のことであり、一方、常人に対してはあり得ない話でした。私たちは常人社会で修煉し、思想の中で「人間の観念」がとても強いと思います。師父は「皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」[1] と説かれました。千百万年以来形成された頑固な観念が、頭の中で作用を果たして、私たちの身体を侵害しています。「年を取っている念」を認めると、その念は自分の空間場で作用を果たしてしまい、空間場の物質も本当に年を取っているように変化させるのです。

 師父は「性命双修とは、心性を修煉するほかに、同時に命も修めるということ、つまり本体を変えるということです。本体を変える過程において、人間の細胞が次第に高エネルギーの物質によって取り替えられ、その際に老衰が緩和されることになります。身体が若者の方向に少しずつ逆戻りし、少しずつ転化され、最後には、その身体が高エネルギーの物質によって完全に取り替えられた時、この人の身体は完全に別の物質の身体に転化されます」[2] と説かれました。

 私は大法を修煉しています。師父が教えてくださったことは、すべてが「宇宙の真理」です。大法弟子として、師父と法を堅く信じていれば、心は動じないはずだと悟りました。その後「年を取っている」という念が頭の中や行動に現れると、その場で直ちに正念でその念を滅し、自分の空間場で作用しないように、何もかも良い方向に転化させるように努力しました。

 不思議なことに、この法理を認識できた後、夫と娘は「背筋を伸ばして!」と言う言葉を、あれ以来、一度も言わなくなりました。私の背筋はいつの間にか、自然に真っ直ぐになりました。

 注:
 [1] 
李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」
 [2] 李洪志師父著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/15/382593.html)
 
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