明慧法会|善念と慈悲で人々を救う(上)
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文/中国の大法弟子 本人の口述を同修が整理

 【明慧日本2020年6月20日】私は1996年に修煉を始めた大法弟子で、今年(訳注:2019年)76歳です。今は私が長年修煉してきた少しばかりの出来事を、師父にご報告申し上げるとともに、同修の皆さんと交流したいと思います。

 毎晩寝る前にもう起きられないのではないかといつも心配していました。
私は1940年代に河北省の県庁所在地の街で生まれ、家は地元で有名な金持ちでした。家族の年長者はみな善良で、新年や祭日のたびに、私たちが食べるものを住み込みの雇人にも食べてもらいました。私の祖父は村で数ムーのねぎを植えて、さらに鍬を置き、村人が専用に使えるようにし、地元の村民もとても私たちを尊敬していました。

 その後共産党が来て、私たち一家は「富農(訳注:「反動的な5種類の人々」の一つ)」とみなされ、すぐに家産はすべて没収されました。幼いころの記憶はすべて差別を受けたことばかりで、他の友達はみな学校に行きましたが、私は行けず、まるまる2年遅れでやっと学校に行くことを許され、その後一家を挙げて東北地方に移住しましたが、この状況が変わることはありませんでした。私が仕事をしてしばらくして文化大革命がおこり、私はどんなに仕事をしても他人より一段劣っていました。その時、私が最も恐れたのは表に書き入れることでした。毎回「出身階級」を書き入れる時、他の人に見られ恥辱を受けるのではないかといつも特に恐れていたので、私は特に卑屈で、体も悪くなりました。

 22歳の年に、ある時私は湯つぼを持ち、突然床に倒れ、気を失い、何もわからず、1時間以上が経ち、やっとゆっくりと意識を取り戻しました。その後病気がだんだん多くなり、腎臓結石、胆石、胆嚢炎、頸椎病、心臓病、高血圧、胃腸病など、時には痛みで本当に生きているより死ぬ方がましだと思い、毎年入院して治療しなければならず、退院した後はさらにカートいっぱいの薬を引いて家に帰らなければなりませんでした。私は北京で最も有名な病院にも行きましたがよくなりませんでした。

 私がちょうど満40歳の時に病気のため退職しました。その頃毎日寝る前に、私はいつも「速效救心丸(訳注:狭心症に効く漢方薬)がここに置いてあるので、私の病気が再発したら私の口に入れてください」と夫に伝えました。毎日このように伝えましたが、やはり自信がなく、私は「再発したら声をかけて夫に薬を飲ませてもらえますが、もし声が出なかったら、その時はあの世へ行くだろう」と思いました。私は今日横になったら、明日は生きているかどうかわからず、病気の深刻さはみなこのような程度でした。

 大法を修煉し百病が解消する

 幼いころから私の祖母と母親はみな佛を信じており、私は解脱の道を探し求めるという考え方を抱き、40代で寺に入って帰依し居士になりました。しかし文化大革命の後、寺院はすでに乱れ、私は敬虔に住職をサポートし、住職が家に来て食事をし、佛を修める人はきれいであるべきだと私は思い、炊事道具と食器をすべて塩水で慎重に洗ってからやっと食事を作りました。食事の後住職が家の門を出る時「門の前の木はよくない」と言って、木を切らせました。その時も木を切ることが殺生であるとは知らず、僧侶の言葉は正しいのだと感じていました。このようにして時間があれば寺院へ行きましたが、何年過ぎても、体は好転せず、修煉の意義もわかりませんでした。

 1996年6月初め、私が53歳のとき、妹が大法の修煉を始め、私に法輪功を紹介しました。私は「私はこんなの信じません、修煉なら寺院に行きます、気功でどうやって修煉できるの?」と言いました。しかし妹はいつも法輪功のことを私に話し、私は妹の誠意を感じ「あなたたちのその煉功は遠いでしょう、私は歩くのが不便だから、行けません」と言いました。妹は「この功は家でも煉功できるわ」と言いました。私は「それなら動作をいくつかやって見せてよ」と言いました。妹が第一式の動作をやり終えた後、私は「この功法は非常に良く、上下ともに引っ張り、動作は優雅で、間違いなく良いものだ」と感じ、私は「この功なら私は煉功してみるわ」と言いました。

 その後妹はまた『轉法輪』を持ってきました。『轉法輪』を読むと、私はとても快適に感じました。その後ずっと長い間、私は毎朝煉功し、スーツをお召しになった師父の法身が私のそばに来られ、お帰りになるのを見て、煉功をしているとそれがはっきりと見えてきましたので、私は「これが本当の佛法なのだ」ということがわかり、それから私は非常に敬虔になりました。もともと歩くのも骨が折れた私は、今(訳注:2019年11月)は毎朝2時間煉功しても疲れを感じず、どんなに重いものを持っても軽々としています。

 私の家は300平米以上あり、半分をみんなのために学法点として使い、毎日40~50人が学法に来ていました。当時新しく修煉を始めた人が多く、どこにでもつばを吐く人がいて、衛生面に注意を払っていませんでした。毎日みんなが帰った後、私たちはいつも長い時間をかけて片付けなければなりませんでした。この時私の人心が沸き上がり、少し耐え切れなくなり、妹は私に「あなたはまだ修煉する気があるの、修煉するなら放下しなければなりません」と言いました。妹がそう言った後、私も「自分の考えは正しくなくて、これは汚いことを恐れる心ではないのか?」と気づきました。それ以後またそのようなことに遭っても、私は放下できるようになりました。

 私の夫はとても良い人で、善良で親切で、東北地方の冬は比較的寒く、毎日学法する人が多く、家には集団暖房(訳注:スチームから各部屋に暖房を送る暖房設備)がなく、夫はボイラーを燃やしてくれました。ボイラーは石炭をたくさん必要とし、みんながお金を出し合って石炭を買いましょう、と多くの同修が申し出ましたが、私は「そんなことは考えないでください、みなさんはここで安心して学法し煉功してください、私は今この条件を持つことができ、それはすべて師父が与えてくださったのもので、みなさんがお金を出す必要はありません」と言いました。

 1997年の正月がちょうど過ぎた時、私は娘の家に行きました。娘は3階建ての家に住んでいましたが、階段はすべて外にありました。ある日の朝、私は階段を降りながら、掃除をしていましたが、水が溜まっていました。気温が低く、階段には薄い氷が張っていて、階段を降りる時、私は足を滑らせ、2階からまっすぐ滑り落ち、どすんと地面に落ち、何が起きたのかわかりませんでした。ゆっくりと意識を取り戻した後、私が最初に思ったのは「もし私が建物の清掃管理会社に交渉すれば、清掃員は失業するだろう」ということでした。そして娘が救急車を呼び、私は全身を動かすことができず、担架で病院に運ばれました。病院で病気の検査をしても何も見つかりませんでしたが、私は動けず、全身ががたがたになり、腹の皮でさえ痛みを感じました。私は師父が説かれた「借りがあれば、返さなければいけないのですから、修煉の途中で危険に出会うことはあります。しかし、そういうことが起こった時でも、あなたを恐怖に陥れ、あるいは本当の危険に遭遇させるようなことはありません」[1]を思い出しました。私は「私は修煉者であり、必ず何事もないはずだ」と思いました。こうして10日間以上煉功した後、すべてよくなりました。

 1997年の夏、私は家に帰りましたが、私の家は比較的大きいので、全市と隣の県の二つの区で必要な書籍をみな私の実家に置きました。ある時三つのコンテナボックスの本を私の家に送りましたが、一つのコンテナボックスの重さはとても重くなりました。作業員が箱を下ろした後、外は雨が降っていたので、家の中に入り家を汚すと、大法書籍に対して失礼だと思い、作業員たちに「ここに置いていただければ、あとは自分で運びます」と言いました。廊下から書籍を置いた部屋までは6、7メートルの距離があり、当時私はまだ業を消している最中でしたが、あまり多くを考えずに自分一人で家の中に運びました。仕事から帰ってきた妹は「これは誰が運んだの?」と聞きました。私は「私が運んだのよ」と言いました。妹は驚きました、三つのコンテナボックスの中に収められた小さい箱の書籍は、皆30キロ以上あり、積み重ねられ、整然としており、自分でもどのように運んだのかわかりませんでした。もともと私は手に何かを持つのが困難な人間で、このようなことが行なえたのは、すべて師父のご加持のおかげでした。

 あの時、私は修煉を通して、すべての病気がいつしかよくなり、まだ残っていたのは腎臓結石の症状だけでした。ある時用事があり、実家に帰りました。実家から帰る前日、腎臓結石の発作が起き、私は痛くて我慢できなくてずっと頭を壁にぶつけていました。夫が私に「帰るかどうするの?」と聞きました。私は師父が説かれた「物事の善し悪しは人間の一念によるものだ」[1]を思い出しました。私は「行きましょう!」と言いました。不思議なことに、十数時間の電車で、その間まったく痛くなかったことでした。乗り換えの時に友人の家に行くと、最初は激烈に痛み、その友人は医者で「あなたのは典型的な腎臓結石で、まだ十数時間電車に乗らなければならないのなら、あなたはたどり着けず、とても危険です」と言われました。私は「私はやはり行かなければなりません」と言いました。電車に乗ると、まったく痛くなくなり、家に着いたとたん横になりたくなり、再び痛み始め、4、5時間痛み、コウリャンくらいの大きさのが一個と、米粒大の結石二個が自然に出てきました。その後、腎臓結石が再び再発することはありませんでした。

 1997年冬、私は子供の世話をしに娘の家に行きましたが、娘の集合住宅には煉功場がなく、毎朝私は30分間バスに乗って町の煉功場に行かなければなりませんでした。その後に私たちの集合住宅にも修煉者が1人いると聞きました。私たちは集合住宅のそばに煉功場を作りました。最初は3人だけでしたが、1999年の迫害前は、30人を越え、毎日煉功に来ていました。

 北京に法を実証しに行く

 1999年初め、私はまた実家に帰りました。5月ごろ、中国共産党(以下、中共)が煉功場のすべての人の登録調査を大規模に行ない始めました。7月20日、警察が各煉功場で狂ったように人を捕まえ始め、私はそのことを聞いた後、北京に陳情しに行こうと決め、事実の真相を執権者に伝えようと決めました。しかし当時北京に入る道はすべて封鎖され、7月21日私は修煉している妹と数人の同修と車に乗って隣県に行き、隣県から電車で天津に行き、天津で乗り換えて北京に行きました。私たちが出かけてすぐに、75歳の母親から電話がかかってきて「警察が家を家宅捜索し、今でもずっとあなたたちを探している」と言いました。そこで私は北京にとどまりました。

 当時どのようにしてでもこの迫害をできるだけ早く制止したいと思い、ちょうどアナン国連事務総長が北京を訪問しており、そこで私と数人の同修は資料を準備してアナン国連事務総長に渡そうとしましたが、当時、各国政府がみな嘘にごまかされていたため、とても手間をかけたにもかかわらず手渡すことはできませんでした。

 外国政府がダメなので、中国政府に会うことにしました。2000年1月、私は同修3人と陳情受付事務所に行くことにし、陳情受付事務所に着き、法輪功を修煉していると言うと、個人情報の記入を求められました。私はさらに誰かが来るのを待たされ、私たちを直接公安局へ送りたくなさそうでした。同行した別の地方の同修は大きな木を抱えるように手錠をかけられていました。私たちが留置場に送られる前に、その地方の同修は「お姉さん、さようなら」と言いました。それから私たちは二度と会うことはなく、その地方の同修は帰ってから間もなく迫害されて亡くなったと聞きました。

 留置場の環境は劣悪で、寝るには人が混んでいる場所で、トイレに行って戻ってくると寝る場所がなくなり、トイレは部屋の中の大きな穴で、とても汚れていました。私は幼いころからきれい好きで、もし大法を学んでいなければ、このような苦しみに耐えられなかったでしょう。

 留置場の監房には17人おり、14人が大法弟子でした。大法弟子が煉功すると牢名主が殴り、私はそれを見て、牢名主に大声で「やめてください、人を殴ってはいけません!」と言いました。牢名主は殴るのをやめ、その後私が煉功する時牢名主は「おばさん、この監房ではあなたは煉功でき、私はあなたのために見張りをするが、他の人ならそういうわけにはいかない」と言いました。私は「それではいけません、修煉するならみんなが修煉し、私一人が修煉してどうするのですか?」と言いました。みんなで一緒に煉功しても牢名主は気にしませんでした。しばらくして留置場の警官に見つかり、留置場の警官がやってきて一人一人にみな手錠をかけ、それからその場を片付け、私たちをみな連れ出しました。向かいは男性用の監房で、私たちの声を聞きつけた男性囚人たちはみな小窓に寝ころび、称賛の目で私たちを見ており、私は手錠をかけられた両手を高々と上げて「法輪功! 私たちは法輪功です!」と叫びました。

 私たちは丸2日間手錠をかけられ、寝る時や食事の時もずっと手錠をかけられていました。ちょうどある一人の同修が審問に連れていかれ、手錠はかけられておらず、戻ってきてからみんなに順番にご飯を食べさせたり、トイレに行く手伝いをしました。

 留置場で最も必要なものは大法ですが、留置場に入る時服を脱がされ、検査は特に厳しいものでした。ポケット版の『洪吟』を私は服の内側に隠し持っており、服を脱ぎ終えようとした時、突然一人の警官が「よろしい、服を着ろ、こんなに年を取っているのだから、行きなさい」と言いました。『洪吟』を順調に持ち込み、中で私は絶えず学法し法を暗記し、1カ月後私は留置場から抜け出しました。

 2001年1月、私は監視されている同修の家に行き、再び留置場に不当に連行され、続いて続々と多くの同修も不当に連行されて同じ監房にやってきました。牢名主は私に対していじめをせず、留置場内の規定に基づき、新しく入ってきた人は頭から足までバケツいっぱいの水をかぶらなければならず、このようにして牢名主はまず初めににらみをきかせました。しかし牢名主は私に水をかけませんでした。ある大法弟子が入ってきた時、私はいつも牢名主に「大法弟子に水をかけてはいけません」と言いました。牢名主は「わかったわ、おばあさん、あなたの言うことを聞きましょう」と言いました。その後入ってきた同修に水をかけることはありませんでした。

 私はこの2回の不当に連行された時はどちらも中で年を越しました。年を越した時、同修の家族が果物を送ってきて、私たちは尊敬の念をもって師父に果物をささげる隠れた場所を見つけ、みんな跪いて師父に新年のご挨拶を申し上げ、ある常人は私たちが跪いているのを見て、同じように跪いて頭を下げる人もいました。真相を伝える以外に、他の時間は同修と学法し煉功し、師父のご加持の下、絶えず新しい新経文を受け取ることができました。1カ月後、私は無事に家に帰りました。

 恐れる心を克服して資料を配る

 2003年、私は娘が住んでいる街で200平米近い家を購入し、3カ月以上かけて改装しました。私は山東省の職人に仕事を頼みましたが、職人たちを労働者として扱わず、職人たちが仕事で疲れていることに同情し、少なくとも週2回職人たちのためにスペアリブを買って煮込みました。私が行くと、職人たちが取り囲み、感動して「私たちは外で仕事をし、外から飲み水をとるのも自分でしなければならず、毎日こんな肉が送られてくるのは見たことがありません」と言いました。ある親方がお金を使いすぎてしまい、旧正月に家に帰るお金が無くなり、私はその話を聞いた後、すぐに3000元を親方にあげました。職人たちと私の関係はとてもよくなりました。その後三退を勧めた後、私は職人たちを呼んで三退を勧めると、職人たちは「おばさんはとてもいい人です、おばさんが言うことなら私たちは何でも信じます」と言い、全員三退しました。

 ある時、同修が7部の真相資料をくれたので配りに行きました。夜に2時間外を歩き回りましたが、1部も配れず、どこを歩いても誰かに見られている感覚があり、足が震え、口が乾いて仕方がありませんでした。翌日学法し、やはり出かけなければならないと思いました。夜に再び出かけ、3時間歩き回りましたが、1部も配れませんでした。戻ってきて再び学法し「他の人は配ることができるのに、私はなぜできないのか、私はやはり出かけなければならない」と思いました。3回目に出かけると、外に出たとたんパトカーが家の前に止まっており、驚いて再び家に戻りました。私はやっと「学法が少なく、心性が基準に達していないので、何をするにも難しくなるのだ」ということに気づきました。

 その後のある日、私は『精進要旨』を読み、読んでいるうちに、本が光り出し、すべての文字が金色の光を発したので「これは師父が励ましてくださっており、師父の法を正す進展に追いつかなければならず、恐れる心を克服して出ていかなければならない」ということを知りました。その時私はちょうど地方におり、地方の大法弟子に資料をプリントしてほしいと頼み、資料を配り始めました。最初はやはり怖く、出かける前日はいつも、心が不安でしたが、絶えず師父にご加持をお願いし、出かけると怖くなくなりました。その後は毎回資料作りから資料配布まで、全過程において自分で正念を満たし、縁のある人に真相を得させることができ、このように行なうにつれてより順調になり、不思議なことが多くありました。

 その時資料はクラフト紙の袋に入れました。ある時配り終わった後に黒い鍋底のように空が暗くなり、私は「こんな時に資料を持って帰ってももう間に合わず、これで濡れてしまったらどうしよう?」と思いました。雨が降らないようにと私は師父にお願いし、結果そのほかの地方はみな大雨が降り、私が資料を配ったところだけが一粒も雨が降りませんでした。師父の慈悲深いご加持に感謝申し上げます!

 ある時私は夜の11時まで資料を配り、遠くまで歩いて道に迷い、お金を1銭も持っておらずとても焦り、「師父、私は家がわからなくなりました、どうかお助けください」と申し上げました。再び歩き始め、顔を上げると、家の前についていました。

 さらにある時、非常に背の高い警備員に尾行されたとき、「私に追いつけない」という一念を発しました。そして見てみると警備員は私の後ろで行ったり来たりしており、私に追いつけなくなりました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 (続く)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/7/395499.html)
 
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