千万年の機縁 幸せな時
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 【明慧日本2020年8月5日】明慧ネットや明慧ラジオで、師父が大法を広められる日々を同修たちが偲ぶ文章を読んだり、聞いたりする度に、私は感動して思わず涙が出ます。その貴重な記録は一人一人の大法弟子を励まし、未来の人々に貴重な歴史を残すことになります。

 今日、私は当時数回にわたって師父の説法講習会に参加した思い出を書き出し、全国で大法を広められる師父のご苦労と数々の困難を記録し大法を実証します。

 私は北西部の黄土高原の貧しい村で生まれました。10歳の頃に比較的平坦で便利な平原に引っ越しました。貧しい生活の中でも両親は私たち兄弟を学校に通わせてくれました。毎日の食事も十分に摂れず、いつもお腹が空いていて、衣服もあちこち継ぎ当てのもので、学校の発表会で着る服も近所から借りたものでした。

 私は1985年に結婚しました。当時は「改革開放」したばかりで、私は町に出て小さな店を営む自営業者になりました。しかし、長年の肉体的な苦労で健康状態はどんどん悪化しました。漢方医である祖父に気功を勧められ、私は気功に興味を持つようになりました。1992年、私は他の地域で行なわれている気功を学びに行くため、旅費と宿泊費を含めて1000元近くを使いました。その金額は当時の私にとって大金でした。しかし、師父が語られた通り「結局無駄足を踏んで、人力と財力を無駄にして、何も得られなかったのです」[1]。最終的にその気功師の姿すら見ることができず、病気の治療にもほとんど効果が見られませんでした。

 それでも、私はもう一度その気功師の講習会に参加してさらに勉強しようと、1994年6月のある日列車で出発しました。途中で北京で乗り換えることになり、私は北京にいる友人に電話をし、北京に寄る理由を伝えました。すると、友人は私に法輪功を紹介し、法輪功の師父が北京で12期目の講習会を開かれたばかりで、とても素晴らしい功法だったと教えてくれました。その日の夜、友人は私が泊まっている宿に、師父の北京での説法録音のカセットテープを持ってきてくれました。私は一晩中聞いて本当に素晴らしいと感じ、北京に留まることに決めました。

 私はもう1人の友人と一緒に北京地壇公園の方沢潭煉功に行きました。輔導員は私たちを暖かく迎えてくれ、五式の煉功動作を教えてくれました。そこで私は『中国法輪功』を買い求め、師父が間もなく鄭州で講習会を開かれると聞きました。「本当に幸運でした!」。私は師父の講習会を心待ちにしていました。

 6月9日の夜、私は北京から河南省鄭州市に行く列車に乗り、10日の午前に着きました。地元の法輪功学習者達が迎えてくれ、私は40元を支払い申込みをした後、比較的安い宿を案内してもらいました。

 11日の午前、私は数人のよその地域から来た学習者たちと一緒に前もって講習会の会場を訪れました。そこはアスベストタイルや鉄で覆われた屋根とセメントの床の古い体育館でした。観客席はセメントの階段で、中央に比較的広いプラット台の家にあるようなテーブルが置かれていました。私たちは皆初めて講習会に参加することになり、自由席でしたので、プラット台の後ろの階段を登り、そのまま座って上から師父の講義を聞きました。終了後、古い学習者から、師父より上に座ることは良くないと教えられ、師父に対して無礼であることが分かりました。今思い出しても恥ずかしくてたまりません。翌日から私たちは早めに入場して、セメントの床に座って丁重に師父の講義を聞きました。会場には1000人以上の学習者がいました。

 12日、師父が講義をされる最中に、突然風が強くなり、雹が暴雨に混じり鉄の屋根に当たって大きな音がし、ガラスのない窓から雨が入り、停電も発生しました。演壇の周りも雨が漏れ、師父はテーブルを少し移動された後、テーブルの上に座られて大手印を行なわれました。それから、師父は釈迦牟尼佛が当時法を広める時の物語を語られました。学習者たちは皆静かに師父のお話を聞いていました。しばらくすると、雨がやみ、窓から日差しが差し込んで、学習者たちは大きな拍手を送りました。

 その後、会場は少し条件の良い体育館に変更されました。毎日講義の前、師父が会場の敷地内に来られた際、最初はたくさんの学習者が師父を囲んだり、師父の写真を撮ったりしていましたが、最後にはそうする人はいなくなりました。

 当時、私はまだ修煉から悟ることができず、背中の痛みを師父に治してもらいたかったのです。講習会のある日、講義が始まる前学習者たちが皆敷地内で師父を待っていました。ちょうどその時、私の正面から師父が来られました。師父は優しくも厳しい目線で私を見ておられ、無言のまま私の背中を指で指されました。私は頭が真っ白になり、何を言っていいか分かりませんでした。後で少しずつ分かり、師父は人々に本当に修煉をさせるために法を広めておられると分かりました。師父は『轉法輪』の中でこのように語られました。「今回のような機会はめったにありませんし、わたしもこれから先ずっとこのように教えていくことはありません。直接わたしの説法を聞き、功法伝授を受けられる人は、本当に……今のこの時間が最も喜ばしい時だったと、将来きっと分かることでしょう。もちろんわれわれは縁を重んじます。皆さんがここに坐っていることは、すべて縁によるものです」[1]

 8日にわたる講習会は終了しました。私たち北西部の省から来た学習者は『中国法輪功鄭州講習会』と書かれた横断幕の前で、師父と記念写真を撮りました。新しい学習者全員に修了証書が配られ、師父から全ての学習者に講習会で得たことを書くように言われました。師父はそれらを一つ一つ全部読むと仰いました。

 鄭州の講習会が終わると、私は一部の学習者と続けて師父が山東省済南市で予定されている講習会に参加することを決めました。その中の1人は北京の若い女性で、四川省成都市の講習会などに何度も師父の講習会に参加していました。優秀な成績で大学を卒業した彼女は国際的な大手銀行に勤めていました。済南に着いた私たちは皇亭体育館に行き申込金を払いました。40元の申込金に対して、古い学習者は25元でした。それから宿を探しに行きましたが、なかなか見つからず、会場の皇亭体育館に戻ると、近くの宿が見つかり、ちょうど人数分の部屋とベッドがありました。今思い出すと、師父は至る所で弟子たちを見守ってくださっていたのです。

 6月中旬の済南の気温は38度以上でした。講習会の中間のある日の正午、師父は学習者の要望に応じられ、外の階段でみんなと記念写真を撮りました。私も再度師父と写真を撮りたかったのですが、私たちは鄭州ですでに撮影したので、師父に負担をかけないようにと止められました。猛暑の中で、師父は大勢の学習者と順番に記念写真を撮られました。

 済南の講習会に参加した3日目、朝起きた時、私は全身が痛くてひどい風邪のような症状が現れました。しかし、講習会が終わると、朝の症状が全部消え、全身が軽く感じました。その日から今日まで、私は薬を飲んだことがなく、外観的にも若く見え、同年齢の人より10歳も若いとよく言われます。

 1994年10月、私が県内で建築工事の仕事をしていた時のある日、友人から12月に師父の講習会が広州で開かれるという情報を得てとても嬉しかったのです。12月、私は妻と娘、それにもう1人の親戚を連れて、講習会の3日前から広州に向けて列車に乗りました。

 ここで小さなエビソードがありました。最初は娘を連れて行く予定はありませんでしたが、出発する前夜、5歳の娘が突然熱を出したので、母親に預けるのも不安でしたので、いっそのこと一緒に連れて広州に行くことにしました。西安で乗り換える時には、娘はすっかり良くなり、元気に遊んでいました。西安駅でインスタントラーメン1箱を買い、広州行きの列車に乗り換えました。今考えて見ると、師父はこのような方法で娘にこの貴重な機会を与え、師父の子供弟子に成長させて下さいました。

 広州講習会に参加する学習者は5000人以上いましたが、そのうち200人ぐらいは入場券を入手できませんでした。私たちも入場券はありませんでしたが、北京の友人がどこからか2枚の入場券を調達してくれました。妻と親戚は初めて参加する新しい学習者なので、先に娘を連れて入場させました。私とほかの入場券のない学習者らは隣の小さいホールに按排され、無線放送で師父の説法を聞きました。翌日、同修が1枚の入場券を持って来て、私が会場に入って子どもの面倒を見ることで、妻と親戚が集中して師父の説法を聞くようにしました。その後、北京の同修が入場券を譲るという話を聞き、私たちの入場券は北京の輔導員から譲ってもらったことを知り、とても感動しました。

 毎日、師父が演壇に上がられると、数千人の会場は一瞬にして静かになり、秩序を維持する人がいなくても、みんな師父の高い次元での説法を真剣に聞いていました。師父の声は大きくてよく通り、2時間の説法の間に水を一口も飲まれませんでした。講習会の中で、師父は学習者たちの身体を浄化してくださいました。皆に片方の手を上げ、同時に足を踏みつけるように指示されました。その瞬間、師父は空中を手でつかんだ後、床に投げられました。妻は師父の前の床に火花が飛び散っているのが見えました。もちろん、天目が開いた弟子はもっと多くの光景が見えたかもしれません。

 当時、私たちは広州のある軍隊の招待所に泊まり、毎日専用バスで会場まで送ってもらいました。全国各地から講習会に参加する学習者の中には大学教授や国家上級技術者がたくさんいて、同じ招待所に泊っていました。中には古い学習者が多く、50歳以上の人も若々しく見え、やさしく親切で、偉そうな態度の人は一人もなく、皆がお互いに穏やかに修煉の体験を交流しました。

 妻は長年肺結核を患っていましたが、講習会から家に帰って、県の防疫所からもらった肺結核の薬を全部捨てました。大法を修煉してから妻の肺結核は完全に治り、元々冷たいものを食べられませんでしたが、現在は何でも平気に食べることができるようになりました。

 広州の講習会から地元に帰って、我が家で煉功場を立ち上げました。新しい学習者が来ると、師父の説法の録音テープを聞かせました。また、たくさんの学習者は北京の大法研究会から聞いた我が家の住所録を持って、遥々私たちの煉功場を訪ねてきます。私たちは通りの端にある店に住んでいるため、比較的探しやすいのです。大法は私たちの煉功場からたちまち周囲の町と県に広まりました。

 師父の説法ビデオが出版された後、家のカラーテレビと再生専用のビデオデッキが大法を広める宝物になりました。私はそれを使って地元で9日間のセミナーを開く他に、農村地域を回って大法を広めました。また、大企業からも私たちに師父の説法ビデオを放送する要請がよくありました。私は喜んで要請に応じ、8、9日をかけて法を広めに出かけ、家の店は妻一人に任せました。不思議なことに、私が店にいなくても商売には影響がなく、逆に普段よりも売り上げが良かったのです。これは大法からの福報だと思います。その後、私は所在地の省の総輔導站と協力して、周囲の省と市を訪れて同修たちと交流し、修煉と大法を広める良い環境を形成しました。

 当時、大法が私たち北西の遠隔地域で広まった事情を実証するために、私はこの経験を書きました。1999年7.20以降、中国共産党による法輪功への残酷な迫害の中で、私も重点対象となり迫害されました。倒れたこともありますが、師父のご加護のおかげで、再び立ち上がることができ、今日まで修煉の道を歩んでいます。

 師父、ありがとうございます!

 同修の皆さん、ありがとうございます!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/27/409617.html)
 
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