日本明慧


法を暗記して見つけ出した執着心

文/中国大陸弟子

【明慧ネット2006年1月5日】99年7月20日の前に、盤錦での交流会に参加したとき、ある1人の同修が『転法輪』を9回も暗記したことを聞きました。そのとき、私も法を暗記しようと考えましたが、昔工場で頭を打って傷を受けたことがあり、法を暗記すると頭が痛くなるので、暗記することをやめました。

 2001年夏、洗脳転向クラスで迫害を受けて「転向」され、釈放された後、自分がなぜ修煉の道から外れてしまったのかについて考えました。これは、やはり心の中に法がなかったのではないかと気づきました。家に戻ってから、周りの環境が安逸で、しかも修煉の道から外れた自分は、師父と大法に申し訳ない気持ちで自分に対して諦めていたので、法を暗記することがなかったのです。 このように、9年間の時間がそのまま無駄になってしまいました。しかも時々、私は毎日本を読んで、煉功をしていて、正念を発しているし、真相もちゃんと伝えているので、上と比べたら足りないかもしれないが、下と比べればそれなりに精進しているのではないかと自信満々で考えていました。そのため、法を勉強するときや正念を発するとき、頭の中にいろんな思惟が飛び回り、よく雑念に邪魔されたのです。師父は、「彼が頭の中でそうしたことを考え、そうした邪念を持っているようでは、どうして覚者が来てくれましょうか? 開眼という目的が達成できるわけもないのです」。(『転法輪』・開眼)とおっしゃっています。

 2005年7月になってはじめて、私はやっと『転法輪』を1回暗記しました。でも、暗記するペースが速くて(これはスピードにこだわりがあって、名声を求める自己顕示の心だと思います)、2回目に『転法輪』を暗記したとき、「求めるということの問題」のところで止まってしまったのです。それに、自分は私心で親戚だけに真相を伝えたために、壁にぶつかりました。親戚は共産党、共青団(共産主義青年団)と少年先鋒隊からの離脱を宣言したにもかかわらず、その後また離脱したくないと言い出しました。これはもちろん党の発行している読み物などからの邪悪な力が働いて、親戚が邪霊を深く信じているのが主な理由だと思います。

 ある同修たちが11月1日を「法を暗記する日」と決めて、法を暗記したら、1日か2日間でさらにその同じ内容を復習して暗記するという体験談文章を「明慧週刊」で読みました。そのとき私は、これは常人のような憶え方だと勝手に決めて、同修たちの文章をまじめに読んでいなかったのです。「心性を向上させる」まで暗記したとき、どうしても憶えられなかったのです。師父は、次のように言われています。「以前、多くの人は心性を守りきれないことでさまざまな問題が生じて、ある次元まで煉ってきたのにそれ以上、向上することがなかなかできませんでした。ある人はもとから心性が高いので、煉功の途中で天目がパッと開いて、ある程度の高い境地に到達しました。この人は根基が比較的よく、心性がきわめて高いので、功の伸びも速いのです。彼の心性の位置に功が到達したあと、功をさらに伸ばそうとする時には人とのあつれきやトラブルもきわだってきますので、さらに心性を高めてゆかなければなりません。特に根基の良い人の場合、自分の功は調子よく伸びて順調に煉ることができていたのに、どういうわけで突然、厄介なことがこんなに多くなってきたのだろうか? と思うことがあります。まわりの人に親切にしてもらえなくなったし、上司から嫌われるようになったし、家族との関係も悪化してしまった。どうして突然、こんなに多くのトラブルが生じてくるのだろうか? 彼自身、まだ悟ろうとしないのです。彼は根基が良いため、ある次元に到達するとこのような状態が現れました。しかし、どうしてこれが修煉者の最終的に圓満成就する際の基準だと言えましょうか? 上へ向かって修めるにはまだまだ先は遠いのです! あなたは引きつづきご自分を高めなければならないわけです。それは自らが持っている根基が作用したからこそ、そういう状態に到達したのであって、それ以上、向上しようとするならば、基準もさらに上げなければならないのです」。(『転法輪』・心性を向上させる)

 法を暗記することの一番良いところは、大法に照らして自分の根本的執着を直ちに見つけ出せることです。私が失敗を重ねてきたこの何年間の経験から、師父のおっしゃったこの一段の法に対してさらに深い理解を得ました。法を暗記してから、自分の体験を書き出すことによって、長い間自分の身に潜んでいた根本的な執着を取り除くことができると悟りました。以前、ある同修に「あなたが家でテレビを見れば、同じ家に住んでいる別の同修が法を勉強するのを邪魔することになる」と、指摘しました。しかし彼は、「それは違うよ。常人の状態に合わせなければならない」と反論しました。そのとき、私は自分の考えが間違っていないと思い、自分の心の内に向かって考えませんでした。

 今日になってはじめて、この同修に起きたことは、やはり私が根本的に名声に執着していて、法を正す中で大法への損失を取り戻すために、いい結果を急ぎすぎてちょっと過激になったことと関係しているので、彼は私の意見を受け入れてくれなかったのです。私の執着心を捨てなければ、彼はますます私に修煉者に相応しくない行動を見せるのです。私が自分の執着を取り除き、理性的に法を実証すれば、彼は良くなるのではないだろうか? もう一人の同修もそうです。私はずっとこの同修を説得してきましたが、彼は一向に外にでて法を実証しようとしないのです。これも、法を実証する中で自分を実証しようとした結果です。つまり、まだ名声に執着しているということです。

 私が過激な行動を取ったせいで、同修はいまだに法を実証する勇気がないのです。この何年間に、常人は私たちが何を言ったか、彼らに何を与えたかをまったく聞かないし見ない、と私は気づきました。常人は私たちの行動を見ます。もし、私が自分の言っていることが正しいと意地を張ったりすると、彼らはより耳を貸そうとしないのです。それによって、良くない影響が生じて、縁のある人を追い出してしまいます。自分を高めなければならないとき、逆に外へ向かって求めていたことは真の正しい修煉者の状態ではない!だからこそ、師父は私に教え、私の心性を高めさせてくださいました。

 もし、私の心が広く寛容で、細かいところにこだわらなければ、「どうして突然、こんなに多くのトラブルが生じてくるのだろうか?」(『転法輪』・心性を向上させる)ということにはならなかったでしょう。自分の考えが正しいと意地を張ったことで、私は多くの心性を高めるチャンスを逃してしまいました。「しかし、修煉は厳粛なことです。師父はこれらのことを善解し、皆さんの代わりに多くの業と借りをも返しましたが、これほど由々しき一大事なので、生死の試練において修煉者に対する要求は高くなくて良いのでしょうか? 精進していない学習者はなかなか乗り越えることができません」。(『2005年サンフランシスコでの説法』) 

 そうですね!師父は私たちのために多くのことをしてくださいました。私が精進して、心性を向上させるように自分を厳しく律し、法を正す進展に追いつかなければ、師父が慈悲で苦心された済度にはもちろん、私に心性を向上させようと修煉体験談を書いてくれた同修、とくに法を暗記することを教えてくれた同修に本当に申し訳ないことになります。「法を学びて法を得る、学んで比し修して比す、事々く対照し、做すところ到るは是れ修」(『洪吟』・実修)。 私は今、同修の経験に従って前日の夜暗記した法を、次の日の朝座禅する前にもう一回暗唱する(一回だけではなくて、完全に憶えられるまで暗唱する)ので、「心性を向上させる」と「灌頂」をしっかり暗記し憶えたので、よく照らして修めています。自分の経験を書いたのは、今までまだ法を暗記し始めていない同修に対して、難しさを恐れないで、でも私のように焦ってもいけない、と伝えたかったためです。

 法を暗記する中で、師父は随時に私たち教えてくださるのです。私たちの執着(つまり、常人の観念)がそこにあれば、この一段の内容は絶対に憶えられないのです。これが法を暗記することの良いところです。執着を取り除くことが出来たことが、法を暗記したことの結晶です。それによって、初めて、法の中で昇華したと体験することができます。また、師父が私たちに体験談を書かせるのも一つの修煉の過程です。書くことが下手だとか、投稿しても掲載してくれないとかという常人の観念に左右されてはいけないのです。私は一回投稿して掲載されませんでした。でも、私は書き続けました。どうしてだろうか?それは、修煉体験談を書く中で、確かに自分の心の中にある、よくないもの、捨てられない執着に触れられるからです。体験談を書くことは、それらを白昼の下に曝け出し、一層のからを消すこととなります。なぜなら、陰性で暗いものは、太陽の光に対してひとたまりもないからです。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/5/117986.html