文/イギリスの大法弟子
【明慧日本2014年11月1日】(前の文へ)
三、師父の慈悲
師父はいつもそばにいて、私たちを加護してくださっているので、私たちの胸に法がありさえすれば、永遠に道に迷わないでしょう。
私は方向音痴で、ある日、私はある環状の十字路まで歩いてきた時、チラシを配るのに効率がいいように、チラシをいっぱいに詰めた箱を十字路に置き、チラシを1袋持って戸別に配りました。私がまず配ったのは環状の十字路の外郭にある世帯で、中に入ってから「この環状の十字路の外側に放射線のように外に向かって伸びていく多くの何条もの道がある」ことを見つけましたが、やはり私たちがチラシを配らなければならない場所でもあるので、その道にもチラシを配りました。配りながら私は、自分のチラシがあと何枚かだけになってしまったことに気が付いたのですが、もし資料を取りに引き返したら、遠い距離をどれだけ行けばいいかわからなかったので、時間を無駄にするし、もし行っても、どこまで行けば私の箱を見つけられるのかわかりませんでした。「神通力を使いこなしてチラシを取って来れたら良かったのに」と、私は思いました。「しかし、法を正す中での情況は大法によって司られており、大法が衆生を救い済度することの要求にしたがって変化しているのです。実はこのとき、大法弟子が神の事を行うのはどうしても必要なことであり、なぜならば、大法弟子の個人修煉は既に第一義の問題ではなく、法を正す中で衆生を救い済度し、大穹を新たに組み立てることこそが目的だからです」[1]と師父はすでに私たちに教えてくださいました。ですから大法修煉者は神通力があり、もし正念が足りていれば神通力を使うことができますが、もし人心があれば神通力は発揮しません。全てのチラシが人を救う効果を発揮できるように、一般的に私はチラシを配りながら経文を暗唱するか、もしくは発正念しました。今、私は自分の手の中のチラシをこの近くの住居に配り終えるよう、もしくは新しいチラシが飛んで来るように師父に加持をお願いしました。気づかないうちに私はチラシを配り終わりましたが、チラシが私の手に飛んで来ることはなく、「それは自分の正念がまだ大きくなく純粋でないからだ」と思ったので、チラシを取りにいかなければいけなくなりました。そこで私は頭を上げて周囲をぐるりと見回しながら地形をチェックしたのですが、それは戻って来た時、続けてちゃんと配れるようにするためでした。私が頭を上げて地形を観察した時に、道の反対側に私の箱を見つけたのですが、結局私は最後の一軒をちょうど配り終わったところだったのです。もし頭を上げて地形を観察しなければ、私は一心不乱に進んでいき道に迷ったか、あるいは私の箱を見つけることができなかったかもしれません。あの時たとえようもない震えを感じると共に、心はとりわけ優れて、殊勝さを感じました。
四、最も清浄で最も神聖な心で神韻を広める
神韻を広めることは大法弟子にとっての光栄であり、神韻を広めることは師父が無量の慈悲と大きな受容を以って私たちにお与えになった、衆生を救い済度するためのチャンスであり、さらに縁はちょっと油断すると容易に過ぎ去ってしまい二度とめぐってこないので、私たちは最も清浄で最も神聖な心で神韻を広めなくてはならず、何らかの純粋でない心は神韻を広める事の成否と衆生を救うことに絶対に影響があります。最初、私たちはチラシを配る時に人心で問題を考えており、人手が足りなくなることや、配り終えないことを心配していたので、少しだけ法を聞いたことがある大法弟子の親戚を動員して、私たちと一緒にチラシを配っていたのですが、結果は帰りの路上で車が壊れたために、車と乗っていた人は全員、途中でまる5時間以上を無駄にすることになりました。
またその次の時は、運転手を欠いていたので法を少し勉強しただけで本当の修煉をしていない1人の常人が、私たちのために車を運転したのですが、結局カーナビの狂った案内が、同修をますます遠くへ連れて行ってしまい、最後は目的地に着けなかったのでケンブリッジに戻りました。最初の何回か神韻のチラシを配った時には、皆がまだ団結していなかったことから、結果、車のナビゲーションシステムにトラブルが起きない時は、路上でパンクしました。神韻を広め衆生を救い済度することの厳粛性と神聖性に最後にやっと気づき、道すがら皆が学法と発正念をするようになると、それからは車に問題が出てくることはありませんでした。最後には、私たちのチラシ配りがとても順調だったばかりでなく、他の神韻を広める形式も非常に順調に進み、とても成功したので、チケットの販売で優秀な成績を収めました。
五、ケンブリッジの学習者とイギリスの学習者が互いに力を合わせる
ケンブリッジの人手が足りない状況でも、やはりその他の神韻を広める部門のために貢献し、同時にまた他の地域の同修の助力も得ることができました。ある同修はほとんどの時間をイギリスの神韻協調センターのために行い、劇場と多くの影響を互いに与え合いました。もう1人の同修は神韻を広める事が始まって以来、バーミンガムに住んでおり、資料を配る主力になったばかりではなく、さらにまた他の学習者のための料理の仕事を引き受けました。神韻を広め始めた初期、「今年、神韻を広める事を請け負ったからには、その場所の同修は神韻を広める事に参加するために私たちのケンブリッジに戻ってくるはずだ」と思う学習者もいました。法に基づいた交流で、「私たちイギリスの大法弟子は一丸となっており、イギリスで神韻を広める事が成功するかどうか、それは私たち大法弟子全員にとっての検査であり、私たちに自己本位主義的な私心がなかったかどうかということも含め、それぞれの場所の同修の現在の神韻を広める形式がイギリスで神韻を広める事に対してより良い作用を発揮していたので、私たちは支持すべきだ」ということを皆が知りました。
私たちは「ケンブリッジで神韻を広めることだけしか考慮しない」という私たちの私心を修練で取り除いたので、他の地域の大勢の学習者の支援を得、特にロンドンの学習者の助力を得たのかもしれません。私たちが街の中で展開した神韻を広める活動は、基本的には地方の学習者の助力で成り立っていました。
ということは、私たちケンブリッジ地区での神韻を広める事の成功は、私たちケンブリッジの学習者が共に努力した結果だけではなく、私たちイギリスの同修全員が自我を捨て、連係し、共に努力した結果だったということです。大法が私たちを一つにまとめ、一つの全体を形成し、無条件に自我を捨てさせ、他人を成就させ、他の地方を成就させ、私たちイギリスで神韻を広める事をも成就させました。
慈悲で偉大なる師父に感謝いたします、同修の皆さんに感謝いたします。
(完)
注:
[1]李洪志師父の著作:『各地での説法七』「米国西部国際法会での説法」