文/吉林省の大法弟子 静水
【明慧日本2023年2月19日】(前文に続く)
それから1カ月後のある夜、同修のLさんが地元の同修を連れて年配の同修のところに行ったところ、私たち4人を加えて15人もいました。みんなそれぞれしっかり準備したものを持っており、大きな横断幕2枚を持参し、1枚は5人用の大きな横断幕で「法輪大法は邪を鎮め乱を滅し 圓容して不敗である」と書かれており、15枚の小さい横断幕にはそれぞれ「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍」と書かれてありました。「法輪大法はすばらしい」と書かれた水素ガス風船を男女2人の年配の同修が持ち「法輪大法はすばらしい」と赤いセルフペイントで刻まれたパネルをRさんと私が持ちました。
水素ガス風船を持った2人の同修を除いて、私たちは皆、真相を伝える手紙、真相資料、真相シールをそれぞれ持っていました。全員が二つのグループに分かれ、それぞれ一つずつ水素ガス風船を持っていました。北京までのルートと北京で落ち合う場所を決め、準備した手袋をはめて出発しました。同修のLさんがチームを率い、Rさんと私が別のチームを率いました。
途中、清潔で目立つ場所、特にいくつかの十字路やT字路を選び、赤いセルフペイントスプレーで「法輪大法はすばらしい」という言葉を吹き付けました。同修が作ったパネルは、端然と描かれており、ていねいに作られていました。他の同修は、真相資料を配ったり、真相シールを貼ったり、真相を伝える手紙を送ったり、できる限りのことをしました。
途中、パトロール中のパトカーに発見されました。みんな一斉に散り散りになり、水素ガス風船を持ったおばさん同修だけが見つかり、おばさんは水素ガス風船をうまく隠しました。暗かったので、警察は何も見つけられず、おばさんだけを見た後、車で去っていきました。パトカーが去った後、Rさんはみんなを集合させ、引き続き前進しました。もう一組も途中でパトカーに遭遇しましたが、発見されずに間一髪で助かりました。
北京郊外に着くと、もう夜明けが近かったので、簡単に身支度をして、三々五々天安門広場に向かって歩きました。広場に着くと、2人の年配の同修が手に持っていた水素ガス風船をゆっくりと放ち、多くの人がそのガス風船と「法輪大法はすばらしい」の文字に目を留めました。風船は、まるで誰かに引っ張られているかのように、ゆっくりと上昇していきました。風船を発見した警官が風船を捕まえに行きました。
同修のLさんと私たち4人の同修は、迅速に大きな横断幕を開き高々と頭上に掲げ、浩瀚たる蒼穹に向かって「法輪大法は素晴らしい!」、「法輪大法は正法である!」、「私の師父は無実です! 大法の潔白を取り戻す!」という最もよく響く心からの声を張り上げました。他の同修もすぐに各自の小さな横断幕を取り出して掲げました。
警官たちが電話でパトカーを呼びながら、狂ったように駆け寄ってきました。警官たちは横断幕に突進しましたが、長くて掴みにくいために、まったく奪うことができず、横断幕を自分たちの体に巻きつけていました。そこで、私たちは反対方向に回り、再び横断幕を掲げました。同修の手から横断幕が奪われた時、みんなが横断幕を守るために集まってきました。みんな「法輪大法はすばらしい!」と叫び続け、 絶えず警官と戦い、横断幕を守りました……。
長い時間が過ぎ、大きな横断幕は警察によって持ち去られました。警官は疲れ果てて文句を言い、同修を車に引きずり込みましたが、誰も私を捕えに来ませんでした。私はすぐに持っていた小さな横断幕を開き「法輪大法は素晴らしい!」と大声で叫びました。警官が引き返してきて、私も捕まりました。
天安門広場警察署に着くと、警官から「北京に来る学習者が多すぎて、北京市街にはすでに人を拘禁する場所がない」という話を聞きました。夜になると、警察は大型バスを何台も持ち込み、武装警官を大勢連れてきて、私たちを別の場所に移すことにしました。若い男性同修が1列目に立ち、みんなが腕を組み、師父の『論語』を暗唱していましたが、武装警察がやってきて蹴る殴るして引きずり、ハアハアと息を切らしていました。私は、Rさんと同修のLさん、河北省や山東省の女性の同修と一緒に、密雲県公安局に送られました。
現地の刑事警察から一晩中、不当な取り調べを受けました。取り調べをしていた警官はドアを閉め、私の名前と住所を聞き始めました。私が何も言わないと、警官は私をビンタし始めました。手が痛くなると、今度はプラスチック製の靴底で叩きました。「パンパン」という大きな音がしましたが、顔に痛みは感じませんでした。私は心の中で、師父に静かに感謝申し上げました。
その警官は私に「名前を言えば帰してやる、山東省德州市の者か?」と言いました。私は「違います、名前は言えません。もし、私が話したら、私たちの地元の関係者は解任され、地元の警官も職を失うでしょう。師父は私たちに良い人を目指すよう説かれているので、私は何も言いません」と言いました。その時、外で誰かが「言わないやつは送れ!」と叫びました。
私は同修のLさんと一緒にその場所の拘置所に送られ、私たち合わせて16人がその拘置所に不当に拘禁されました。拘置所はコンクリートの床でできており、湿気が多く、寒いので、拘置所にいるのは無理でした。同修の一人がお金を出して大きな掛け布団を買ってきて、みんなで布団を囲んで座りました。その同修は、唯一持っていたキュウリを取り出し、私たちはそれぞれ一口ずつ食べました。一巡しても、キュウリはまだ半分残っていました。
私と同修のLさんは布団を買った同修と一緒に絶食をすることに決めました。3日後、警官に連れて行かれた私たち3人は、その地方の駅にいました。警官は私たちに「次から来るな」と言うと、車を走らせていきました。
私たちは静かにある同修の家に行き、外から帰ってきたばかりの同修の息子が「母が帰ってこないのです」と私たちに言いました。村にはいつも警察が来ており、さらに村には通報する人もいたので、私たちは急いで出て行きました。
同修のLさんと一緒に空き家に来たのですが、同修のLさんがとても慣れている様子で、もしかしたら同修のLさんの家かもしれないと私は思いました。私たちは小声で話しながら、まず家に帰ることにしました。夜明け前に空き家を出発して、私たちは駅までやってきました。北京から地方へ行く乗客は誰もチェックしないので、同修のLさんは私に切符と途中で食べる饅頭と漬物を買ってくれたので、私は路上で食べました。私は無一文(お金は天安門広場警察署で警察に没収された)でした。同修のLさんは私に「家に帰るのに、駅は家から遠いですか?」と聞きました。同修のLさんが私に旅費を渡したいと思っていることがわかったので、私は「遠くありません」と言いました。私は同修のLさんに私のためにこれ以上お金を使ってもらいたくなく、人々を救うために大法弟子が真相資料を作るためには、あまりにも多くのお金が必要だからでした。
六、同修と協力して法を実証する
翌日の夕方、私は家に着きました。駅を出てから、自宅近くのPさんの家に行くことにしました。修煉後、私たちはいつも一緒にいましたが、私はPさんから地元の様子を知りたかったのでした。お金がなかったので、Pさんの家までの10キロを歩くと、すでに真夜中でした。中庭に飛び込んで窓をたたくと、私の声を聞いたPさんが慌ててドアを開けてくれました。Pさんは北京の状況について質問しました。交流の後、もっと多くの修煉者が法を実証するために出てくるべきだと私たちは気づきました。
翌日、同修がちょうど頼んだ真相資料を地方から車で取りに来たので、私はPさんと一緒に車に乗って地方に向かいました。その地方では小さな交流会があり、私は天安門広場で法を実証した同修たちの壮挙について話し、Pさんは現段階での一部の法理の認識について交流しました。私とPさんはあちこちにいる同修に会って交流し続けました。その6カ月間でどれだけの村を訪れ、何人の同修に会ったか覚えていません。ただ、交流を通じて、より多くの同修が北京に集結し、法を実証する行列に入ったことを知りました。
2回目にPさんの家に戻ったのは夕方でした。Pさんに今後の予定を聞かれたので「2カ月経ったので、家に帰って様子を見てみたい」と答えました。私は笑顔でPさんに「夫のLさんは、夜になると必ず携帯電話の電源を切る癖があります。電話をしてみて、電話に出るようであれば帰ります」と言いました。Pさんが電話を持ってきたので、電話してみると、Lさんの電話の電源は切れていませんでした。
私はLさんに「私は戻ります」と言いました。Lさんは嬉しそうに「あなたが帰ってくるだろうと思っていました、昨日は朝からカササギがうちの庭で鳴いていました。この2日間、携帯電話の電源は入りっぱなしでした。すぐにタクシーで帰ってきてください、料金は家に着いてから払いますから」と言いました。私とPさんは、笑顔で顔を見合わせ「すべては師父の按排です」と心から感動しました。
家のドアの前に着くと、Lさんはすでにドアを開けていました。家に入ると、Lさんは買ってきた下着やコートとズボンをすべて出してきました。これからは北京に行く時にもっといい格好をしなさい、恥ずかしくないようにしなさい、と私に伝えました。私は「また警察が来て、私を探しているのですか?」とLさんに聞きました。来なかった、とLさんは言いました。私は子供が見えなかったのでLさんに聞くと、Lさんは子供はずっと義母のところに滞在していると教えてくれました。翌日、義母の家に行くと、義母は特に私のことを心配し、毎日寝不足だったそうです。私が無事に帰ってきたのを見て、とても喜んでくれました。
七、故郷で真相を伝える
Lさんは地元の警察署から私が嫌がらせを受けるのを恐れて、義母に子供の世話を頼み、私とLさんは私の実家にきてゲームセンターを開設しました。私がゲームセンターの管理を行い、Lさんが定期的にやってきて、ゲーム機の修理やカードゲームの更新を手伝ってくれました。
ある時、Lさんは「『轉法輪』を読んでみたい」と言いました。また私はLさんにつきあい、師父の説法の録音テープを聴きました。全部聴き終えて、Lさんは「人は猿から変わったのではなく、人は宇宙から来たのだ」と一つのことをはっきりと言いました。残念ながら、それ以来、Lさんは本を読まなくなりました。
故郷で私は現地の同修と連絡を取り、真相資料を提供してもらい、みんなと一緒に協力して資料を大量に配布しました。昼間はゲームセンターを管理し、夜はいつも資料を配りに出かけました。真相資料を配って帰ってくると、夜明け近いこともありました。時々、私が配りに行くのをLさんがバイクで連れ出してくれました。ある時、私が貼ったシールが低すぎると思ったLさんが、誰かに破かれるのを恐れて、シールをはがして高いところに貼ってくれたことがありました。
ある時私たちが資料を配っていると地元の警察署の警官に見つかってしまい、私はまた義母のところへ戻りました。ゲームセンターに遊びに来る人はほとんど学生であり、修煉者がこんなにお金を稼ぐのは良くないと思って、私もちょうどゲームセンターをやりなくないと思っていたところでした。
帰った後、私はスプレーで字を書き、真相資料を配り、真相が書かれた横断幕を掲げて、大法を実証し始め、平屋建ての家やビルに出向いて資料を配りました。私はコートの内側に大きなポケットを縫い付け、真相資料とセルフペイントスプレーを入れました。特に冬場は、ダウンジャケットの内側にポケットを二つ縫い付けました。塗料は冷えやすいので、予備のセルフペイント塗料をポケットに入れました。スプレーする前に塗料を振って、スプレーした文字の深さが同じになるようにしました。私が赤いスプレーで吹き付けた言葉は「法輪大法はすばらしい」、「真・善・忍はすばらしい」、「世界は真・善・忍を必要としている」、「法輪大法は世界に洪く伝わっている」、「法輪大法は正法である」でした。またその後数年、黒いスプレーで「江沢民を法で裁け」、「全世界で江沢民が公判にかけられている」などの文字も書きました。
一度、いとこ(いとこは一時的に修煉していなかった)の家に行ったことがありました。夕方、いとこに連れ出してもらい、私たち2人でまずは資料を配り、その後、また文字をスプレーする作業に戻りました。まず学校に到着した私たちは、壁を飛び越えて校庭に入り、スプレーを振って各クラスの壁に文字を吹き付け始めました。
学校で文字をスプレーしてから村民委員会本部のところへ戻ると、暗闇の中でいとこが待っていました。村民委員会の部屋には明かりが灯っており、ポーカーに興じる人々で賑わっていたので、文字をスプレーするには絶好のタイミングでした。私はしっかりと場所を決めてスプレーをかけ始めました。頭の中は空で、何も考えず、一字一句間違えないように集中しました。帰り道、いとこは「村民委員会本部でスプレーしていた時、後ろに男性が立っていましたよ」と私に伝え、私がスプレーし終わるのを見ると、その男性は静かに去っていったということでした。これにはいとこも驚きました。私はいとこに「正しいことをするのに恐れてはいけません」と言いました。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「威徳」
(続く)