【慶祝513】私たちのこの大家族(2)(一)
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文/吉林省の大法弟子 静水

 【明慧日本2023年2月18日】(前文に続く)

 三、形勢の急変

 1999年7月20日、江沢民のチンピラ集団と中国共産党(以下、中共)は、一切の偽装をかなぐり捨て、法輪功への残忍な弾圧を全面的に開始しました。その時、私はもう仕事をしていませんでした。

 1999年4月25日には、私は現地の同修3人とレンタカーで北京に陳情に行きました。私たちは4月26日に北京に到着し、天津で法輪功学習者(以下・学習者)が逮捕された問題が解決したと聞いて帰ってきました。

 1999年7月20日、私は地元の同修と一緒に省政府に陳情に行きましたが、省内の多くの同修が陳情に来ており、みな自分たちの経験で状況を伝え、法輪功を取り締まるのは間違っている、法輪功は良いものだと政府に伝えようとしているのを見ました。しかし、学習者に立ちはだかったのは、警察、パトカー、機動隊でした。学習者は次々とバスや大型車両に力づくで引っ張り上げられました。バスに乗らない学習者は、高齢者であろうと殴られ、蹴られました。

 当時は学校が休みで、ほとんどの同修が学校の校庭に拘禁されました。学校の校庭に拘禁した後、警察は同修たちの名前と住所をしきりに尋ねてきました。どこの学校に拘禁されたのかわかりませんでしたが、私は遠く離れたところにいるような気がしました。夕方まで校庭にいて、誰も見ていない時に私は外に飛び出しました。東西南北の区別がつかなかったので、すぐにバスに乗り、家に着いたのはとても遅くなりました。私たちの家族は、中共が私たちを弾圧していることを以前から知っていました。Lさんは私に「煉功はできないので、家にいてください」と伝えました。義母や義妹も私を心配して、Lさんに「むやみに出かけないように、目を離さないようにしてください」と言いました。

 当時、Lさんは地元警察署の警察官であるWさんと仲良くしていました。迫害が始まったある夜、WさんはLさんを呼んで私を警察署に連れて行きました。警察署に行くと、Wさんは私に、煉功をしないという「保証書」を書くように言い「家に帰って煉功をしてください、それなら私たちは気にしません」と言いました。私は書きませんでした。Wさんはその後、私のことをLさんに頼みました。Lさんは私に「書けないのですか?」と聞きました。私は「書けません」と言いました。するとLさんは私を蹴り始めました。騒ぎを聞きつけたWさんは、Lさんに「私たちは彼女を殴っていないのに、なぜ殴ったのですか?! 書かないなら書かないでいいですから、帰ってください」と言いました。家に帰った後、Lさんは私を見て、私に煉功させてくれませんでした。Lさんが家にいる時は煉功しませんでしたが、Lさんが出かけると、私は煉功しました。

 一度、Lさんが帰ってきた時に坐禅していると、足が痛くて動かせなくなったことがありました。部屋に入ってきたLさんは、私の痛がる姿を見て、笑いながら「どうしたのですか、坐禅で足が痛くてこうなったのですか!」と言いました。それ以来、Lさんは私に関わらなくなりました。義母が私のことを尋ねると、Lさんは「何でもありません、毎日家にいます」と言いました。その後、私は法を実証するために北京に行き、Lさんは大法書籍を隠しました。一度、地元の警察が不当に家宅捜索に来たことがありましたが、Lさんは近所の人に大法書籍と師父の写真を持って行ってしっかり保管してほしいと頼みました。

 実はLさんは大法がすばらしいものであることを知っており、大法を修煉した後の私の変化を見ていました。しかし、Lさんは心の中で中共を恐れ、私が迫害され、家族がバラバラになることを恐れていました。その頃からLさんはまたお酒を飲むようになり、特に機嫌が悪くなるとお酒を飲むようになりました。

 ある夜、同修たちと「北京に行きたい」と交流しました。帰り道で義母に会いましたが、Lさんが包丁を持ち出してあちこちで私を探しており、その時はすでに義母のところで寝ていた、ということでした。義母は「外に隠れていなさい」と言いました。私は微笑みながら「お義母さん、大丈夫ですから帰ってください」と言いました。義母はため息をついて、Lさんが起きて騒ぐのを恐れて、家に帰りました。

 翌日、Lさんは酔いから冷めた後帰宅しましたが、何も起こりませんでした。私はLさんに「私は煉功して盗んだり奪ったりしませんし、家のことはすべてあなたに任せています。私は何もやましいことはしていませんから、あなたもプレッシャーを感じる必要はありません。今後大法の名誉が回復した時、最後まで煉功を堅持した私を誇りに思うでしょう」と言いました。Lさんは何も言いませんでした。それ以来、私はLさんに殴られることもなく、修煉を止められることもありませんでした。

 四、法を実証するため、二度北京に行く

 地方政府が問題を解決しない場合は、北京に出向いて状況を説明するしかありませんでした。北京に行くたびに、私は「大法、身を離れずして 心に真善忍、存す 世間の大羅漢 神鬼、十分懼れる」[1]という師父の詩を暗唱しました。

 私とある女性同修は2人とも北京は初めてで、不慣れなところがありました。電車を降りた後、私たちは離れ離れになってしまいました。陳情に来た修煉者を追い払うために北京に派遣された、Lさんと親しい地元の村の幹部が私を見つけてくれました。Lさんと親しい地元の村の幹部は私を引き寄せて「あなたは甘すぎる、陳情しても無駄です、陳情所に座っているのは全員公安局の人間です。早く帰りなさい」と言いました。私は引きずられて、切符を購入して家に帰りました。

 それ以来、Lさんは私にお金の管理をさせなくなりました。その頃、私はもう働いていなかったので、何か買うたびにLさんにお金を渡してもらわなければなりませんでした。物を買った残りの小銭を私は貯めていました。少しずつ電車の切符代を貯め、女性同修(後に迫害されて亡くなる)と2回目の北京行きの一番安い電車に乗りました。道中、やはり「大法、身を離れずして 心に真善忍、存す 世間の大羅漢 神鬼、十分懼れる」[1]という師父の詩を暗唱しました。

 その時は、途中で何の妨害もありませんでした。北京に着くと、私たちはまた離れ離れになってしまいました。私が道を尋ねながら天安門広場まで行くと、広場で煉功をしている同修や、横断幕を掲げている同修もいました。私は近くで1枚のロール紙とアイブローペンシル(その時は字を書けるものはこれしかなかった)を買いました。私はアイブローペンシルで紙に「法輪大法は素晴らしい」と書きました。

 私は紙を紙筒に巻き、自分で作った「法輪大法はすばらしい」という横断幕を掲げながら天安門広場に行きました。その時はいかなる人心もなく、とても静かで、天を頂き独り尊くという感覚がありました。

 どれくらい時間がたったのかわかりませんが、警官がやってきて私の横断幕をつかみ、広場にいた清掃員に渡すと、その警官は去って行きました。その時私は帰りたくなかったのでその場を離れませんでした。その後、広場で同修が「法輪大法は素晴らしい! 私の師父は無実です! 大法の潔白を取り戻す!」と叫んでいるのを見かけました。そこで、私も参加しました。

 その後、私は連行され、天安門広場警察署に連れて行かれました。警察署の中には、北京に陳情に来た各地の大法弟子がいました。同修たちは、大法のために正義の声を上げただけで不当に拘禁されていました。みんなで一緒に『論語』と『洪吟』を暗唱しました。誰かが暗唱し始めると、みんなが一緒に暗唱しました。

 警察は、一人一人、名前や住所などを聞いて尋問を始めました。人が多すぎるため、数人の同修が部屋に拘禁され、不当に取り調べを受けました。私は拷問に耐えられず、名前と住所を言いました。その夜、私は北京にある地元所在地の在京事務所に送られました。翌日、地元に帰ると列車から連れ出され、7日間不当に勾留されました。その時Lさんはすでに子供を迎えに行っており、それ以降もうお金を貯める機会はありませんでした。

 1999年の暮れ、Lさんと私は子供を連れて母親の実家に帰り年を越しました。Lさんは切符とプレゼントを買いに行きましたが、私には一銭も使わせてくれませんでした。母親の実家で2番目の従兄弟に会った時、2番目の従兄弟は子供の誕生日に100元を渡し、私はそっとそのお金をためておきました。

 五、三度目に北京に行く

 2000年の正月7日、私は再び北京に行き、常人のものをすべて捨て、真の修煉者になることを決意しました。朝、Lさんと義父母がまだ毛布にくるまって寝ている間に、私は起き上がり、ストーブに火をつけて、そっと家を出て駅に向かいました。バスで町の外に移動した後、列車で北京へ行きました。私は100元しか持っておらず、他には何も持っていませんでしたが、私の心に雑念はありませんでした。バスに乗る前に、ポップコーンを1袋とキュウリ2本を買いました。私は北京まで無事にたどり着きました。

 私は用意した横断幕を袖口に通し、天安門の城楼に上って横断幕を掲げることにしました。高いところに立つと、横断幕を掲げている人がたくさんいることが見えました。城楼に上がるには検査が必要で、非常に厳しかったのですが、私は手に何も持たずに大きく手を振って上がりました。横断幕を掲げたとたんに見つかりました。今回も前回同様、私は天安門警察署に不当に拘禁されました。

 私は不当な尋問を受けました。警官は水に浸したゴムの棒で私を殴りました(殴られた後、その時は体の傷跡は見えなかった)。警官は私をテーブルに押さえつけ、首からふくらはぎまで殴り始めました。次から次へと順番に殴りました。打撃音は大きかったのですが、痛みは感じませんでした。師父が弟子のために耐えてくださっていることを、私は心の中で感謝申し上げました。

 今回は名前も住所も教えないと私は心に決めていました。警官は、殴りながら「お前らバカだなぁ、お前たちの師父は財を成してアメリカに行ったんだぞ。お前らばかはまだ修煉中だが、利口なやつらはみな修煉しなくなったぞ」と言いました。私は「他の人が修煉するかどうかは私とは関係ないし、私も他の人に修煉してもらおうとは思いません」と言いました。その後、警官は何も言いませんでした。

 学習者が継続的に捕まり、夜中に、私と他の女性の同修2人は住所も名前も言わなかったので、パトカーで留置場に連行されました。パトカーには女性受刑者2人も乗っていました。しかし、留置場に収容されたのは2人の女性受刑者だけで、私たち3人はパトカーに乗せられたまま途中で放り出されました。

 2人の女性の同修は、1人は河北省から、もう1人は山東省から来ていました。河北省の同修が私たち2人を連れて、道の両側の木々の間を歩きました。いたるところ警察だらけで、パトカーもそこらじゅうを走っており、その時の環境はとても恐ろしいものでした。雇われた失業者がたくさんいて、みんな手に棒を持っており、大法弟子に悪を行うのに何のためらいもなさそうでした。駅、大通り、道路、ホテル、どこもかしこもパトロールされていました。

 朝早く、3人でレンガ工場の近くを歩きました。労働者は出勤時間が早いので、饅頭を焼くために焚き火をしていました。私たちは寒くてお腹が空いており、労働者たちは私たちが通り過ぎると、私たちが学習者であることに気づきました。労働者たちは焼き饅頭を食べるように呼び、私たちはお礼を言って、焚き火にあたりながら饅頭を食べました。法輪功は法輪大法とも呼ばれ、良い人になるように教えていることを労働者たちに伝えました。労働者たちは「わかってるよ、食べたら早く出て行けよ、隠れるんだ、警察が探してるぞ」と言いました。

 明け方、山東省出身の男性同修のRさんに会いました。Rさんは自宅が差し押さえられたため、1人で北京に来たのでした。Rさんは北京から40キロのところにある同修の家に泊まっていました。その同修の夫も修煉していました。Rさんは私たちを連れてその同修の家に行きました。その同修の家で出会ったのが、現地の女性同修のLさんで、Lさんはとてもしっかりした理知的な人でした。みんなはまず、そこに滞在して法を学んでから、計画を立てることにしました。Lさんは当時、その地域の協調人をしており、とても忙しく、頻繁に訪問することはありませんでした。夜、休んでいると、同修が私の背中が上から下まであざだらけになっているのを見ました。

 同修の家では、いつも饅頭を買って、漬物を食べました。あまりたくさん買うと怪しまれるので、年配の同修が2人ずつ交代で買いに行きました。私たち4人はその地域では見知らぬ人で、まったく外に出られませんでした。ある時、おばさん同修がキャベツスープの鍋を作り、油がたっぷり入っており、見た目もおいしそうでした。私は特に葉野菜を余分に取って、器に盛り付けました。しかし、お椀を口まで持ってきた時、初めて葉っぱの上に虫がいるのを発見しました。私が同修に見せると、虫なんかいないと言われました。その時、私は「食に対するこだわりや、おばさん同修が清潔に料理を作らないことに対する嫌悪感を取り除くためだ」ということを悟りました。私は茶碗を持って、大口で食べ始めました。それ以来、この嫌がる心を取り除きました。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「威徳」

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/5/24/443982.html)
 
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