文/中国湖北省武漢市の大法弟子
【明慧日本2024年11月17日】1993年、私は武漢市の市委ホール(市の委員会のホール)で、師父の講法を拝聴するという貴重な機会を得ました。それは私にとって忘れられない瞬間でした。
その年、職場の同僚が私に「法輪功は修煉で、とても良いものだよ」と話してくれました。しかし、その時はあまり気に留めませんでした。修煉や気功について何も知識がなく、私の頭の中には全くイメージがなかったからです。当時、私はただ踊ることが好きでした。でも、二日ほど経ったある夕食時に、心の中に「明日、法輪功の学習クラスに行ってみよう」という考えが突然浮かんできました。でも、どこで聞けばいいのか分かりませんでした。すると同僚の言っていた「市委ホール」という言葉を思い出しました。
私は武漢に住んでいるものの、正確に市委ホールがどこにあるかは知りませんでした。「まあ、休暇中で特にやることもないし、出かけて探してみよう」と考えました。
バス停に着くと、バスがちょうど来たので何も考えずに乗り込みました。しかし、そのバスがどこへ向かうのかは分からず、運転手にも尋ねませんでした。心の中で「このバスは市委ホールに行くのだろうか?」とつぶやいていると、バスに乗っていた二人の若い男性が「行きますよ」と言ってくれました。私はすかさず「法輪功の学習クラスに行くんですか?」と聞くと、彼らは「そうですよ」と答えました。それを聞いて、私はとても嬉しくなり、「これで探す必要はない」と思いました。二人はさらに「一緒に行きましょう」と言ってくれたので、私はなんて幸運なんだろうと思いました。
礼堂に着いた時には、私は遅れてしまっていました。当日だけでなく、師父の講座もすでに3日目でした。でも、せっかく来たのだから入ろうと思い、入場券を買って中に入りました。講座を聴いている人は多く、すぐに座れる席を見つけました。
師父は壇上で講法をされていました。私は遅れて来たので、真剣に耳を傾けましたが、内容が理解できない部分もありました。しばらくすると、師父が皆の病を取り除くと言われました。師父の言葉通りに私も従いました。師父は「病気のある人は自分の病気を思い浮かべ、病気がない人は身近な人の病気を思い浮かべてください」とおっしゃいました。その時、私は自分の病気を思い出せなかったので、代わりに喉頭癌を患って重篤な父(養父)のことを考えました。さらに、師父が「足を踏み鳴らしてください」と言われたので、私もそれに従いました。
翌日も講座を聴きに行こうと思い、「昨日は遅刻したから、今日は早めに行こう」と考えていました。しかし家を出た途端に、鼻血が大量に出始めました。隣人が数枚の紙をくれましたが、止まりません。数分経っても鼻血が止まらず、私は焦りました。鼻血が出ること自体ではなく、また遅刻することを心配していたのです。そこで、私は「李先生、遅刻したくありません」と一言言いました。その瞬間、鼻血が止まったので、顔についた血を拭き、急いでバス停に向かいました。ちょうど市委ホール行きのバスが来ていたので、それに乗り込みました。礼堂に着いた時には、またも遅刻していました。中に入ると師父が講台で講法をされていたのですが、私を見ておられるような気がしたのですぐに頭を下げました。それ以降は、講座に遅刻しなくなりました。
私は世間で言う「少し鈍い」人間で、悟りも遅い方です。学習班が終わった後、私は父(養父)を見舞いに行きました。すると父の病は治っており、母(養母)のために料理まで作れるようになっていました。しかし、当時それが慈悲深い師父による救いのおかげだとは悟らず、この出来事を思い出すたびに私は申し訳なさを感じています。
学習班が終わった後、私は修了証を受け取り、自分はもう法輪功の人になったと喜び、得意気になっていました。とても嬉しかったのですが、数分もしないうちにその修了証が見当たらなくなり、どれだけ探しても見つかりませんでした。「次にまた参加した時には必ず修了証をもらって、大事に保管しよう」と思いました。
私は再び、師父が鄭州で行われた法輪功の学習班に参加しましたが、その時もまるで修了証をもらうためだけに参加しているような感じでした。私の悟りがとても鈍く、私のような弟子を導くことは、師父にとってどれほど大変だったでしょうか。
私の同僚(同修)はホールで師父にお会いし、「師父、どうして頭がはっきりしないのでしょうか? 話が理解できません」と話しました。すると、師父は彼女の頭頂を3回軽く叩かれました。その瞬間、彼女の目は輝き、頭もすっきりと冴え渡ったのです。
私たちは世俗社会という大染缸(訳注:人を堕落させる染物用のかめのよう)の中であまりにも深く迷い込んでしまいました。
師父の「一人の人間を済度するのはきわめて難しいことで、あなたの考えを直すことも難しく、あなたの身体を調整することもきわめて難しいのです」(『轉法輪』)という言葉の意味を強く感じます。師父が弟子や衆生のために払われたすべてを、私たちは想像することさえできません。師父は「ですから、簡単に手に入れたからといって、簡単にそれを失ったりしないように、皆さんに忠告しておきます」(『轉法輪』)と教えてくださいました。
私は鄭州の学習班から戻った後、人生観が大きく変わり、それから修煉の道を歩むようになりました。
師父の講法を直接聴くことができたことを大切に思い、毎日学法と煉功を続け、とても幸せでした。その後、幼い頃から頻繁に鼻血が出ていた症状が治まり、首と肩の痛みや下腹部の痛みも消え、本当に無病の軽やかさを体感し、とても快適に感じました。私はよく法を広めに出かけ、人から人へ、心から心へと伝えました。そして、縁のある人々が法輪功の修煉に入っていきました。
1999年7月20日、当時中国共産党の党首である江沢民が邪悪な本性と嫉妬心から、法輪功を中傷し、嘘と歪曲で世間を騙し、まるで天が崩れ落ちるような状況になりました。夫は非常に恐れました。彼は文化大革命を経験しており、巻き添えになるのを恐れ、家での学法と煉功を禁じました。さらに、私の父を唆して師父の写真を破らせようとしましたが、私はそれをすぐに取り戻しました。私は師父を信じ、大法を信じています。
2001年、私は大法を実証するため、師父と大法のために正義の声を上げようと北京に向かいましたが、駅で連行され、そのまま1年間の不当な労働教養を受けました。1年後に帰宅しましたが、夫はさらに厳しく学法と煉功を禁じました。しかし、真・善・忍の教えは私の心に深く根付いていました。彼が家にいない時を見計らって、学法と煉功を続けていましたが、ある時、彼に見つかり、彼は怒りに任せて大法の書籍を破り、暴れました。当時、私は夫が家で怒り狂うのが怖く、その後数年間、家で学法と煉功をすることはありませんでした。
その後、夫の機嫌が良い時を見計らって、「煉功をしたおかげで体調が良くなり、長年の慢性的な便秘も治ったのよ」と話すようにしました。彼は私の話を認めました。私が話したことはすべて事実だったからです。そうして彼は私を厳しく見張らなくなり、家で学法と煉功をするためのゆとりある環境ができました。その数年後、夫は病気で亡くなりました。
私は修煉を早く始めたものの、学法と煉功が断続的で、とくに1999年7月20日以降は、どのように真剣に学法すべきかが分かりませんでした。夫が亡くなった後、私が同僚(同修)を訪ねると、彼女は私を学法の小グループに連れて行ってくれました。そこで集団学法に参加し、真相を伝える活動にも加わり、真の修煉とは何かを理解できるようになりました。時には、自分はまるで新しい学習者のように感じることもありましたが、集団学法を通して、以前の学法はただ形式的に読んでいただけで、心に入っていなかったことに気付きました。同修たちの交流を通して多くのことを理解し、自分の不足や、大法の要求に遠く及ばない自分を見つけることができました。
それ以来、私はずっと集団学法に参加し続けています。師父の教えを心に刻み、少しずつ学びを深め、たくさん学法し、三つのことをしっかり行えるよう努めています。