文/吉林省の大法弟子 静水
【明慧日本2023年3月5日】(前文に続く)
八、不当な労働教養を科される
2001年、娘は放課後に姑の世話になりました。娘はしっかり勉強し、自己管理能力が高く、塾には行かず、基本的に何の問題もありませんでした。義妹は結婚してからもほとんど毎日家に来て、家事や子どもの服を洗濯していました。その1年後、義妹は離婚し、息子を連れて姑と20年間同居することになりました。20年来、義妹には家族の世話、心性の向上、嫌がらせの回避などでお世話になりました。
2002年の正月前に、スプレーで字を書き終わった帰りに歩いていると、張り込みをしていた警官に会い、不当に勾留された後、1年間、労働教養を科されました。
労働教養所では一年中仕事があり、紙を折ったり、おもちゃの鳥を接着したり、人形作りなどをしました。大法弟子は労働教養所で不当に拘禁され「転向しない」大法弟子は包挟(訳注:拷問や洗脳の助手を強いられた受刑者)に監視され、昼間は働かされ、夜は「転向」するように「教育」されました。私は労働教養所で1カ月間「教育」されましたが、ついに誰も私を「教育」しなくなりました。包挟たちは、私が決して屈しないので「『転向』させるのが難しい」と言いました。
私はまた、何人かの看守が心の中で「転向しない」大法弟子を賞賛しているのを見ており、看守たちは私に話しかける時、汚い言葉を使うことはありませんでした。大法弟子が労働教養所に拘禁されるたびに、中国共産党(以下、中共)は労働教養所に数千元を渡していました。毎月、労働教養所では労働教養される人一人一人に「思想報告書」を書かせるのですが、私はすべて真理の内容を書き「大法弟子」と署名しました。後で、こんなことでさえ書いていてはいけないと思い、書くのをやめました。
ある日、労働教養所のもくろみで、拘禁されている人たちを毒害するために中共が自作自演した、いわゆる「天安門焼身自殺事件」をみんなで見ることになりました。そして、見た後の感想を書くように要求されました。私は『轉法輪』第七講「殺生の問題」の第1段落を書いて黙って渡しました。「天安門焼身自殺事件」は嘘で、修煉者は自殺はおろか殺生も許されないことを私は伝えたかったのです。その後、看守たちは討論の場を設けませんでした。
包挟(訳注:拷問や洗脳の助手を強いられた受刑者)の中には、真相を理解し、密かに大法弟子を守る者もいれば、真相を理解せず、悪事を働いて大法弟子を迫害する者もいました。一度、私は包挟に殴られ、指と指の間に鉄鋲を入れられ、首の後ろを切られたことがありました。私はこのことを手紙に書き、食堂で昼食をとっている時に、労働教養所長に渡しました。すると、その手紙を看守に渡してくれというので、私は看守に渡しました。
その時、私は心の中で、この所長なら正義を貫いてくれると信じました。正にこの正念がプラスの効果を働き、労働教養所に大きな波紋を投げかけました。手紙の中で、私ははっきりと「大法弟子は犯罪を犯してもいなければ犯人でもありません。しかし、堅く信仰しているというだけでここで不当に迫害されているのです。ここで大法弟子を殴ることは、誰の行為であろうと犯罪行為です」と指摘しました。
その後、私を迫害した包挟は私に謝罪をし、二度と私に接触しなくなりました。同修たちは、法を暗記し、正念を発することを堅持し、毎日緩めることなく、困難な日々を互いに励ましあいながら歩みました。
労働教養所の規定では、週に1回面会することができ、Lさんは、ほぼ毎週、私に会いに来ました。時には子供も連れてくることもありました。娘はいつも泣いたり騒いだりすることはありませんでした。ある時、子供(訳注:娘)が絵を描いてくれたこともありました。またある時は、叔母、義姉、義妹が全員Lさんと一緒に来ました。義妹は赤ちゃんを抱いてやってきました。看守たちは私を見るなり、Lさんに離婚を迫りました。看守たちの何人かは、せっかちで大声を出しました。看守たちは面会室で「3本足のヒキガエルはいないけど、2本足の人間はたくさんいる。今日離婚しても、明日にはいい人が見つかるよう、私たちがお手伝いしますよ。いくらでも好きな金額を出しましょう」と大声で叫びました。Lさんが何も言わないので、私はLさんに「あなたはまだ若いし、修煉もしていないのだから、私と一緒に苦しまないでください。何事にも始まりと終わりがありますが、法輪功がいつ名誉挽回するかは私にもわかりません。あなたが待ちたければ待てばいいし、離婚したければ離婚してもいいし、私は申請のために届けを出すし、あなたを恨んだりもしません」と言いました。
Lさんは一言も話しませんでした。面会室を管理していた看守も、Lさんに離婚を勧めました。Lさんは「妻は法輪功の修煉をしていると言うこと以外、何も悪いところを見付けられません!」と言いました。看守たちはひとしきり怒号と罵声を浴びせ、去っていきました。
ある時、労働教養所で「転向していない」大法弟子全員に白い錠剤を飲むように強制され、飲まない場合は強引に飲まされました。私は錠剤を口に放り込む時にベストに錠剤を落としました。包挟(訳注:拷問や洗脳の助手を強いられた囚人)は私の手を検査し、口の中、そして舌の下を見ましたが、どこにも錠剤が見当たらなかったので、私が飲み込んだのだと思ったようです。
1年間の不当な労働教養が満了した後、私は「転向」しなかったという理由で、さらに2カ月間、刑期が延長されました。
九、強制的な洗脳
不当な労働教養が終わり、Lさんが迎えに来ましたが、地元の「610弁公室」が労働教養所から洗脳班まで直接私を連行し、Lさんも同じ車に乗って洗脳班に来ました。車の中で「姑と義妹がテーブルいっぱいの料理を作って待っている」とLさんが言い、みんな「やっと最後まで辛抱できた」と思っていました。虎穴から出た私が、悪徒の巣窟に入ることになるとは誰にもわかりませんでした。
洗脳教室に行くと、610弁公室の人員はLさんに「ここの食費は月に1000元(約1万9000円)です」と伝えました。Lさんは610弁公室の人員に協力せず、610弁公室の人員に「1銭も持っていないし、もうこの人のことはどうでもいい」と言いました。そう言うと、Lさんは振り返らずに去っていきました。それ以来、誰も私に食費の話をしなくなりました。
この洗脳班は3階建てのビルの中にありました。不当に拘禁され、その後「転向しなかった」省内の多くの大法弟子がここに送られてきて、職員が1階に住み、2階、3階に人が拘禁されていました。部屋の中にはテーブル、椅子、ベッド、洗面器、歯磨きセットなどがあり、屋根の明かりは一晩中ついていました。
毎日、食堂のスタッフが料理を持って来てきました。部屋の中の人は食事中、椅子に座り、私たち大法弟子が絶食するのを防ぐために私たちはドアの方を向いていなければなりませんでした。もし食べない人がいれば、灌食などさまざまな残酷な方法で迫害されました。部屋の窓は鉄格子でふさがれ、カーテンは何年もかかったままでした。各部屋のドアの上には、部屋の内部を見るための小さな窓がありました。
部屋に入った瞬間、私はすっかり混乱してしまいました。さまざまな思想の中の良くない念が頭をよぎりました。洗脳班の人員が言った「ここで転向しないと、一生出ていくことはできない」という言葉が耳に響いてきました。前途遼遠の想いが、私の心を押しつぶしました。私の心は、同修や家族のことを思い始め、さまざまな感情でいっぱいになりました。
私はゆっくりと自分を落ち着かせようと、師父と法を思い出しました。壁についた血の跡を見た時、それは大法弟子が迫害された証拠だと思いました。私はベッドに座り、強く法を念じ、正念を発し、心を安定させました。
洗脳班の人員は、皆、さまざまな部門から集められていました。洗脳班では、洗脳班の人員の給料は高く、十分な報酬を得ていました。2人で1班でした。ある洗脳班の人員は24時間勤務のフルタイム勤務、ある洗脳班の人員は「転向」作業、さらに用心棒たちが大法弟子を暴力的に「転向」させ、さらにある者は佛教信者であるにもかかわらず暴力的な「転向」に手を染めていました。名声と利益の前で、洗脳班の者たちの人間性はまったくありませんでした。善念や良心は消え去り、邪気が天を衝き、労働教養所よりも陰湿でした。
洗脳班では誰も口をきかず、洗脳と「転向」しかない暗黒の場所でした。Lさんは週に1回来ましたが、私が苦しむのを恐れ、来るたびに果物やお菓子などを持って来てくれました。一度に2人分あり、1人分は部屋の中の当直用で、もう1人分が私用でした。私はLさんがこのように浪費するのを希望しなかったのですが、Lさんは何も言わず、次の時も2人分を持ってきました。
Lさんは、来るたびにいつも当直としばらく雑談しました。「ここでしっかり食べて飲み、絶食は無駄だ、食べなければ灌食してやる、簡単には解放しない、いくら金を積んでも無駄だ」と当直たちはLさんに言いました。解放される条件はただ一つ、感染症にかかった場合でした。
私の「転向」を担当したのは2人の若者でした。私は、2人の若者にはっきりと「雑談するのはいいのですが、人を殴るのは違法です」と言いました。2人の若者は「殴らない」と言いました。確かに、毎日部屋にいる私を見つけると、ドアを閉め、2人の若者は携帯電話をいじって、私だけを残して去っていきました。その後、私の「転向」を担当したのは、汚い言葉ばかりを話す佛教徒でした。毎日、あれこれと絶えず「お経」を読まされました。その佛教徒は毎日私に経を念じ、私も毎日その佛教徒に対して正念を発したのですが、そのうちその佛教徒は頭痛がするようになり、私に会うと頭痛がするようになり、二度と私を「転向」しに来なくなりました。
昼休みには、洗脳班のもくろみで、大法を誹謗中傷するテレビ映画を見ることが多く、それが同修同士が顔を合わせる唯一の機会でした。同修たちはみんなで顔を見合わせながら励まし合い、静かに正念を発し、ついには誰もテレビを見なくなりました。
私は、洗脳班で毎日「私はここでは法を学ぶことも、真相を伝えることも、大法弟子が行うべきこともできない」と考えました。ましてやここは大法弟子がいるところではありませんでした。1カ月ほどして、私は師父にご加持をお願いし、洗脳班を離れることができました。私は心の中で師父に「絶食をし、絶水をし、この場所を離れ、外に出て衆生を救い済度しなければなりません」と申し上げました。そこで、私は絶食と絶水を始めました。灌食されて迫害されると洗脳班の人員に業を作ることになるので、絶食を公にしたくありませんでした。なんとかバレずに2日間絶食をすることができました。私は毎日、食事をビニール袋に入れて、トイレに行く時に流していました。そうこうしているうちに、洗脳班の班長がやってきて、労働教養所の状況について聞いてきました。そして、洗脳班の班長は冠状動脈性心臓病で、息苦しくて背中が痛むのだと自分に言い聞かせるかのように言いました。私は洗脳班の班長に「心臓に疾患があると、なぜ背中が痛むのですか?」と尋ねました。冠状動脈性心臓病を患ってからは背中がよく痛むのだ、と洗脳班の班長は言いました。なぜ洗脳班の班長が、そんなことを言いだしたのか、私にはわかりませんでした。
3日目、当直の者が「痩せたみたいですが、どうかしましたか?」と私に聞きました。私は笑って何も言いませんでした。絶食4日目の朝、喉の調子が悪くなり、血の混じった黒い痰を吐きました。私は水を張った洗面器にわざと吐いて、当直の者たちに見てもらえるようにしました。朝、食事を持ってくる食堂の人が来た時、私はベッドの上に座り、食堂の人に「食べられないので、持ち帰ってください」と言いました。すると食事を持ってきた人は盆を置き、報告に行きました。当直の者がすぐにやってきて、私の目が落ちくぼみ、体重も減り、顔色もひどいことになっているのを見るや否や、すぐにカーテンを引いて窓を開け、横になるように言って電話で看護士を呼びました。
そして、当直の者たちはLさんに電話をして、すぐに来るようにと言いました。当直の者たちは洗面器の中の血痰を見て「結核になったことがありますか」と緊張しながら私に聞きました。私は「病気なんかしたことがないのに、ここに来たらこんな風になってしまいました」と言いました。当直の者たちは「私を殴ったことはない」と言いました。私は「ここで迫害されました」と言いました。看護士が血圧と心拍数を測り「正常ではない」と言いました。「どこか具合が悪いですか?」と聞かれ、私はふと洗脳班の班長が言っていたことを思い出し、ぼそっと「背中が痛いです」と言ってみました。
その時、Lさんがやってきて、私を見てショックを受け、大きな声で「どうしたんですか?」と尋ねました。当直の者たちはLさんに「誰も彼女を殴っていない、すぐに病院へ行きましょう」と言いました。Lさんは「私はお金は1銭も持っていません」と言いました。当直の者たちは「まず病院に行ってから話をしましょう」と言いました。私が歩くこともままならないのを見て、Lさんは私に「誰に殴られたのですか?」と尋ねました。当直の者たちは慌てて「殴っていません」と言いました。私は「ここで人々は迫害されるのです」と言いました。私はゆっくりと車に乗せてもらいましたが、その時は本当にまったく力が入りませんでした。
公安病院に着くと、医師が診察して「冠状動脈性心臓病で、かなり深刻です。また、結核の症状があり入院して観察が必要です」と言いました。私は「絶対に入院しません」と言いました。Lさんもお金がないと言いました。洗脳班の人員は早速、地元の「610弁公室」に助けを求め「610弁公室」はLさんを知る人物を連れてやってきました。610弁公室とLさんを知る人物との話し合いの結果、私を家に帰すことになりました。
帰宅した翌日には、すべての症状がなくなり、身体も以前と同じように元気になりました。私はLさんに「今後は、警察を信じず、大法を信じましょう」と言いました。私は姑と義妹に、大法が迫害されている真相と、この1年以上にわたって経験してきたことを話しました。善悪には報いがあることを姑と義妹に伝えました。大法が迫害されている真相を聞いた姑と義妹は「煉功をしただけで迫害されるなんて、なんとも理不尽で、あなたを迫害する人は誰も我が家には上げないし、絶対に迫害などさせません」と激怒しました。
(続く)