文/雲南省の大法弟子
【明慧日本2023年8月22日】2022年5月末のある朝、同じく修煉者である母が突然、寝室から慌てて出てきて「お腹が痛い、お腹が痛い」と言いました。しばらくすればきっと良くなると思い、私は深刻に考えていませんでした。母はいつも健康的で、修煉している20年の間、大きな病業に遭ったこともありません。普段は体調を崩すことはほとんどなく、元気いっぱいで、無尽蔵のエネルギーを持っている印象を周囲に与えています。
ところが今回は、母が腹痛を訴えてから2カ月近くの間、ずっと腹部の膨満感、全身の痛み、時折発熱に悩まされていました。顔色が悪くて、弱々しく無力で、以前とはだいぶ違っていました。
着実に修煉していないことで招いた身体的迫害
母が刑務所から帰ってきてから4年が経ちました。家に戻った翌日から、私と母は毎朝煉功を続けています。2018年に、第二功法が1時間に増えた時から、私と母は第二功法を1時間行い、早朝の煉功を3時20分からに繰り上げました。しかしここ1、2年、母が座禅するとほとんど眠る状態に陥ってしまうので注意すると、母はとても怒って意思がはっきりしていると弁解します。
出所して以来、母は両足を組むことができなくなり、足を上げたらすぐに滑り落ちます。両足を組めるように解決策として、母はベルトで足を縛って座禅をしてやりくりしてきました。第二功法をする時、何度かふとに目を開けると、母の身体がほぼ90度に前かがみになっている姿が見えました。特に「頭上抱輪」の動作をする時です。
そのため、母と私はよく口論になりました。その口論の焦点は、母が煉功する時にボーッと眠ってしまうという問題です。私には母が眠っているのがはっきり見えたのですが、母は自分が眠っているとは思わず、きっと私の見間違いだと断言してきます。そのため毎朝の煉功のときに、母に注意するべきかどうかが私の悩みの種になりました。
母が本当に眠っていることを証明するために、ある日、私はスマートフォンで座禅の一部始終を録画して母に見せました。眠っている自分の姿を見て母は驚き、絶対直すと決意し、「この2年間、あなたを誤解していたわ」と私に謝りました。しかし、2日も経たないうちに母はまた眠りに落ちてしまいました。座禅中の居眠りのことはずっと解決できず、発正念の時に手が倒れたりもして、とうとう今の病業の状態に至りました。
病業に陥った修煉者にとって、一番大切なのはどんなことでしょうか、周囲の同修が提供できる最も役立つ手助けとは何でしょうか。実はとても簡単なことで、学法と煉功です。煉功の時間と回数を適切に増やし、より多く発正念することです。この道理は誰もが知っていますが、実行できればどんな病業でも乗り越えられるでしょう。しかし、特に重病の真っ只中にいる人は、自分一人ではこれらのことを遂行できません。そのため、周囲にいる同修が付き添って助ける必要があります。その過程は、助ける側にいる同修が自我と執着心を放下する過程でもあるのです。
1、責める心と恨む心を放下する
私は、母のこれまでの修煉状態を鑑みると、母の病状は「母自身のせいだ」と思いました。発病するのも時間の問題だ思い、その都度指摘してきましたが、今まで母に注意しても受け入れてもらえなかったことに対する憤りもあり、私は母に対して多くの不満と非難をぶちまけました。攻撃的な非難を聞いた母は、弱々しく無力でもはや争う気力もなく、ただ「そんなこと言わないで、今は大変なんだから」と言いました。
母の力のない言葉を聞いて、自分の態度はすでに修煉者らしくないと初めて気づきました。母を責め続けている時、自分は正義の味方で母を助けているつもりでしたが、しかし実際は、私は邪悪の陣営になっています。自分の口から母に悪いものを投げつけ、母を引きずり下ろし、病業を乗り越えることをいっそう難しくしました。その時私が考えていたのは、以前から母の不足に気づいて、遅かれ早かれ母は大きな災いに遭うことを予見した自分はいかに正しかったかということでした。母を責めて自分の不満を発散して、母に対して善意のかけらもありません。
母を責めたい気持ちは、私の内心の恨みから生まれるもので、一方、恨みは利己主義の典型的な現れです。その時に言った「あなたのためです」は実は嘘で、本当に相手のためではなく、恨む心に操られたうっ憤の発散にすぎません。恨む心を抑えて母を責めなくなった私は、母の様子をはじめて憐れに思うになり、母に付き添い一緒に難関を乗り越えようと決意しました。
2、説教や指導したい心を放下する
口を謹んで母を責めることをしなくなったのですが、母を指導したいというもう一つの執着心が生まれました。 母があまりに弱っているのを見て自分の責任を感じ、私は母にああだこうだと指導し始めました。明慧ネットに載った文章を手本に、文章に書かれた同修のように難関を乗り越えようと母に要求しました。母が受け入れないと、母に感謝されてないんだと不機嫌になり、いつになったら難関を突破できるんだろうと心配にもなり、心は穏やかになりません。
とにかく、私の出発点はまだ「私」にあって、母の立場になって「今、私に求めていることは何だろう、母のために何ができるだろうか」と聞いたりもしませんでした。そのことに気づいてから病業に遭った原因を探したり、乗り越える方法を提案したりするのを止めました。ついに私の心も静かになりました。
同修Aさんの協力を得て、私たちは3日間連続で、一日3~4時間、母のために発正を送ったところ、母の状態がかなり良くなりました。母がトイレから出てきて「どっさり出ましたよ」と嬉しそうに教えてくれた時、私はふと、執着心を放下して静かに発正念することは、どんな指導や説教よりもずっと良いことだと気づきました。母と交流したら、母は実は師父と大法を強く信じており、必要なのはただ一緒に学法と煉功をする同修がそばにいることなのだと分かりました。
3、相手に合わせて自分の習慣と経験を変える
修煉する中、私は多くの習慣と経験を身につけました。多くの場合、法を師としていますが、自分の経験や習慣に従って修煉するのが一番効果的で一番いいとも思っていました。学法を例にすると、『轉法輪』を朗読するだけでは覚えられないと思って、私はずっと『轉法輪』を暗記したり紙に書き移したりしています。そのため、母と一緒に『轉法輪』を読むのがあまり好きではありません。もう一つ、発正念する時、ただ15分だけでは頭の雑念を排除することができないと思い、私はいつも1時間、2時間をかけて発正念します。
母が病業になってから、私も習慣を変えなければなりません。普段の母は声を出して『轉法輪』を読むのが好きで、読めば読むほど集中するようです。しかし病業になってからの母は、1ページも読めなくなり、読んでいるうちに眠ってしまうか、気力がなくなって声が出せなくなります。母を助けるため、私は毎日一緒に『轉法輪』を朗読することにしました。奇跡的に一緒に読むと、最初母の声が弱々しかったのですが、だんだん声が大きくなり力強くなり、元気も出ました。2人は毎日、1時間毎に発正念をします。つまり正念を発することができるのは、1時間ごとに15分だけでした。それで私は自分の発正念の習慣を変えなければなりません。15分間で、足を組む時からすべての雑念を排除して発正念の状態に入らなければなりません。
最初のころ、母のために私はこんなに自分を変えなければならないと思って、とても文句があったのですが、良くなっていく母を見て、はじめてそれだけの価値があると感じました。心の底には、母のために自分の習慣を捨てることを代価にしたのだから、良い効果を見たいという気持ちがあります。そのため、母が発正念する時に手が倒れていたり、『轉法輪』を朗読する時に眠くなるのを見ると私はイライラしてしまい、母を注意する時の態度も良くありません。
自分が形成した習慣を変えるのは容易ではなく、変えることが自分の修煉と向上に影響するのではないかと恐れて葛藤する時もありました。そんな時、自分のことよりまず母のことを考えることができれば、心の揺らぎはすぐに落ち着き、楽観的に続けていく気になります。逆にもし自分のことを優先的に考えて、自分の修煉が影響を受けるのではと心配するのであれば、何度も心が揺らぎ、母を助けることを止めようとも思いました。
学法して大法の法理で心を浄めてこそ、利己的で私心に由来する心配や葛藤を除去することができ、相手のために優先的に考えることの素晴らしさをはじめて感じました。母と学法を終えて、夕方に私は台所で皿を洗い、一人でバルコニーに座って休んでいる母の後ろ姿を見るたびに、心から師父の加持に感謝します。母の信念は師父のご加持のおかげで強くなり、私は自我を放下して母に付き添ってまた修煉者としての1日を過ごせました。
(続く)