文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年11月17日】(前文に続く)
恨みの心を取り除く経験
うちの会社にはもともと大型の電動カートが2台しかありませんでした。市場調査や商品配達に使っていましたが、頻繁に使用するうえに、車両の品質があまり良くないこともあり、通常1~2年で使い物にならなくなります。それでも無理してしばらく使い続けた後に、新しい車両に買い替える必要が出てきます。
ある年のこと、会社の電動カートは、クラクションだけは鳴らないのですが、ほかの全ては異音を発しており、何度修理しても改善しませんでした。そして、とうとう買い替えの時期がやってきました。男性の社長が「もう買い替えだ」と言って新しい電動カートを購入する準備を始めました。私たちも喜んで、新車が届くのを待っていました。しかし、その年は、女性の社長が新車の購入に強硬に反対し、男性の社長が新車を買うと言い出すたびに、必死に止め、いくつかの「理由」を挙げました。とはいえ、その理由は私たちには全く納得のいくものではなく、会社には十分な資金もあるのに不可解な内容でした。
もう1人の営業担当者は非常に腹を立て、女性の社長があまりにケチで私たちの安全を考えていないと感じていました。私も納得がいかず、だんだんと不満が募り、恨みの心が湧き上がってきました。
その後、だんだんと恨みが強くなり、自転車に乗るたびにその恨みや怒りが止めどなく湧き上がってきました。数日間、体に異変が起こり、食道全体が焼けるように痛み、唾を飲み込むたびに喉から胃までが火傷するような激痛が走りました。その時、頭に「食道癌になったかもしれない」という考えが浮かんできましたが、もちろんそのような邪悪な考えや人間的な観念はすぐに否定しました。
ある日、ふと、「この症状が今抱えている恨みと関係があるのかもしれない」と思い当たりました。自分でも、少しでも恨みを抱くと、ただ食道が痛むだけでなく、全身が不快になることを感じていました。この時、私はハッとし、内面を見つめることを始めました。
その日、自転車に乗りながら、私は「どうしてこんなに恨む必要があるのだろう?」と考えました。新しい車が買えず、古い車に乗るのが安全ではないと感じているからでしょうか? 古い車に乗るときは荷物をあまり積めないので、配達先へ何度も行ったり来たりして余計な時間がかかり、無駄な苦労をしてしまいます。女社長が自己中心的でケチで人を苦しめていると思っていました……。
しかし、私は大法弟子であり、師父に守られているのです。車の状態が悪くても、それは私のせいではなく、師父の守護があるのだから、安全性を恐れる必要はないのです。「苦しい」や「大変だ」と思うかもしれませんが、かつて邪党に迫害され、人身の自由が全くなかったあの悪名高い労働教養所で受けた拷問や残酷な苦しみに比べれば、今のこの少しの苦労や疲労など、なんでもないのではないかと思いました。
女性社長が自己中心的だと思っていた時、ふとミラレパ仏の物語を思い出しました。表面的には、彼の師匠は彼に石を運ばせて家を建てさせ、場所を変えては建てて壊し、壊しては建て直すという理不尽な指示を出し続けました。そのため、彼の背中は擦りむけて血が流れ、膿の出る傷までできるほどでしたが、彼はその苦しみを耐え抜き、師匠を恨むことはありませんでした……。私はとても恥ずかしくなり、自分の恨みの深さに気づきました。
そこで私は目が覚めました。「少しの苦労をするのも良いことではないか? 一体何を恨んでいるのか?」と。車の状態が悪ければ、ゆっくり走ればいいし、荷物が多くて今日中に配達しきれなければ、明日に回せばいいのです。それで怒る必要は全くありません。そう考えた瞬間、恨みの気持ちが一気に消え去り、同時に食道の痛みもなくなりました。体が軽くなり、嬉しくなって、笑いたい気持ちが湧いてきました。確かにその時、実際に笑ったような気がしました。
私が最も印象深く感じたのはその後の出来事です。道中でこの問題について気持ちがすっきりした後、会社に戻ると、女性社長が「やっぱり新しい車に買い替えるべきね。すぐに新車を買いに行って」と言ってきました。彼女の顔には申し訳なさそうな表情が浮かんでいました……。私はその時、とても穏やかで、全く驚くこともありませんでした。会社に戻る途中で、女性社長が新車の購入に賛成してくれるだろうと感じていたからです。なぜ最初に反対したのかも心の中で理解していました。それは、この出来事を通して、私の中にある恨みの心を表に出させ、それを取り除くためだったのです。すべては師父のご安排であり、大法弟子の向上のためにあるのだと感じました。
その後、男性の社長が新しく発売されたばかりの、大きくて長い耐久性の高い車両を2台購入しました。ちょうどその車種が、古い車を下取りするキャンペーンを行っていたため、古い車両2台はそれぞれ900元の割引が適用されました。振り返って考えると、女性社長が新車の購入を引き延ばしていたのは、この車種が発売され、キャンペーンが行われるのを待っていたからのように思えましたが、彼女自身もその理由を意識していたわけではなく、まさに師父の絶妙なご安排だったのです。新しく購入した2台の車両は非常に頑丈で、旧車の2倍以上の積載能力があり、乗りやすく、品質も良好です。それから何年も経っていますが、今も問題なく使えています。電池を1~2年ごとに交換するだけで十分です。
以前は、忙しくて疲れるとすぐに腹を立てて怒りたくなることがありましたが、その出来事以来、仕事がどれほど忙しくても、どれほど疲れていても、恨みの気持ちはまったく湧かなくなり、不満な気持ちも消え去りました。
大法が「忍」に関して私たちに求めていることを深く実感しました。それは、恨みや怒りが生じた時にそれを抑えることではなく、そもそも恨みや怒りが生じないようになることなのです。仕事環境やその時々の状況の中で、自分の中にあったそうした悪い物質が本当に取り除かれたのだと感じています。
もちろん、その後も別の環境や異なる状況の中で、何度も強い恨みの気持ちが湧き上がってくることがありました。では、なぜ仕事の場面ではほとんど恨むことがなくなったのに、他の環境ではまた恨みの感情が出てくるのでしょうか?
後になって私はこう理解しました。恨みの感情が生じる原因はさまざまであり、例えば利益が損なわれたり、名誉や面子が傷ついたり、感情が害されたり、嫉妬心が生まれたりすることが挙げられます。恨みというのは一種の表れであり、その背後にはさまざまな人間的な執着心や邪悪な存在が本質としてあるのです。大法弟子として、あらゆる面での執着心を取り除き、あらゆる変異した邪悪な存在を清める必要があります。一つの側面の執着を取り除いたとしても、他の面でまだ修めなければならないことが残っています。そして、一度修めたものが過ぎ去れば、残っているものをさらに修め続けなければならず、常に法を学びながら真摯に修煉していくことが必要なのです。
長年にわたり、私はさまざまな職場環境で多くの執着心が露わになり、それを取り除くことができました。例えば、プレッシャーがかかる状況での不安や心配の心、リラックスした職場での怠惰な心、他人がうまくやれなかったときに見下す心や、さまざまな生命に対する包容の心を修めること。また、焦りの心や、穏やかに話せないといった党文化的な状態、色欲の心なども取り除くことができました。大法弟子が世間で修煉する中で、社会全体が修煉の場であり、とりわけ職場ではさまざまな要素が絶えず修煉と向上の機会を提供しています。
もちろん、時には関門を乗り越えられることもあれば、うまくいかないことや、ひどく失敗することもあります。私が感じることは、修煉の中でさまざまな心性の関門に直面したとき、どんなに困難であっても、すぐに立ち上がり、前進を続けることが大切だということです。
(続く)