文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年11月16日】
尊敬なる師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私はこれまでの仕事を振り返る中で、大法弟子が仕事を持つことは、ただ生活のため、家族を養うためだけではなく、修煉や法を実証し、衆生を救い、師父が私に与えてくださった貴重な環境だということに気づきました。
職場環境での修煉と人心の除去
私の仕事は営業職で、長年の間に異なる職場や会社で働いた経験がありますが、業務内容は基本的に同じです。多くの場合、私にはひとつの実感があります。それは、この仕事がまるで「托鉢」のようだということです。毎日お客様を訪問し、多くの人と接し、さまざまな人に出会い、さまざまな矛盾や課題に直面する中で、修煉や執着心を取り除く機会がたくさんあります。
自分の修煉の過程を振り返ると、取り除かれていない執着心は、異なる環境で何度も現れ、何度も表面化します。その一つ一つが取り除く過程でした。以下に、長年の仕事の中で、最も深く印象に残った執着心の除去や、自分を正すためのいくつかの体験をお話しします。
嫉妬心を乗り越えた体験
27年の修煉を経て、自分の中にあった嫉妬心は長い年月をかけてさまざまな環境の中で取り除かれてきたように感じていました。しかし、その後、ある出来事をきっかけに、自分の嫉妬心がまだ強く、しかも恐ろしいほど根深く残っていることに気づかされ、今でもその記憶は鮮明に残っています。
数年前、私は地方から地元に戻ってきた際、以前の全国的な会社で働いていた元同僚Aさんが、都会向けのSUVを購入し、かなり裕福な様子を見せているのを目にしました。彼は私がその会社を退職する前に部下として採用した人で、当時は私の下につき、良好な関係を築いていました。お互いに営業職で働き、経済的には同じくらいの水準だったはずです。それなのに、なぜか突然彼だけが富を得て、私と大きな差が生まれてしまったように感じたのです。他の人がどれだけ裕福になっても、もともと比較対象ではないため、特に気にすることはありませんでした。しかし、この同僚についてはよく知っているだけに「同じスタートラインに立っていたはずなのに、どうして経済的にこんなに大きな差が生まれたのか?」という気持ちに苛まれたのです。
その当時、私は嫉妬心に囚われ、どうしようもないほど辛く、抑えようにも抑えきれない強い人心が湧き上がってくるのを感じていました。しかし、その執着心に囚われている最中の私は、それが執着心だとは認識できていませんでした。時折、「これは嫉妬心なのかもしれない」と思うこともありましたが、その一瞬の正念もすぐに人心にかき消されてしまいました。
振り返ってみると、当時の私はとても執着していて、人心が非常に強烈でした。自分より後から始めた人が、自分以上に上手くいく姿を見ると、不満に感じるだけでなく、「悔しくてたまらない」状態になり、どうにもその気持ちを手放せないでいたのです。
師父は私が悟っていないのを見て、会社のある上司を通して嫉妬心について「見せて」くださいました。その上司は、ある大企業の地区マネージャーも兼任していたのですが、ちょうどその時期、その企業の他の地区マネージャーが「優秀社員」に選ばれました。それが原因で、もともと親しかったその上司は不満を抱き、そのマネージャーとの関係を遠ざけるようになり、毎日私たちの前でその人の悪口を言い、評価を下げるような発言をするようになったのです。その「優秀社員」が何だっていうんだと、見下すような態度でした。
その期間、私の修煉の状態は非常に悪く、内に向かって探るという意識がすっかり失われていました。目の前で上司があれほどはっきりと嫉妬心を表す様子を見ても、それが自分の「鏡」となって内に向かうよう促していることに全く気づきませんでした。
「自分にも同じような人心があるのではないか?」と考える代わりに、「どうして上司はあんな風にあの人を扱うのか?」と不思議に思い、以前との態度のギャップに驚いていました。人が「優秀社員」になっただけで悪く言うなんて、「手が届かないブドウを酸っぱいと言っているようなものだ」と感じ、逆に上司の人間性を少し軽んじるようになっていたのです。
私がまだ悟れずにいると、師父はさらに別の人を通じて私を気づかせようとしてくださいました。ある日、別の会社の営業員Bさんと数日間一緒に仕事をしていた時のことです。何のきっかけか、Bさんが自発的に、私のかつての同僚Aさんについて話し始めました。Bさんが接触してきた多くの店舗の店員たちから聞いた話だと、Aさんは数種類の商品を代理販売していて、各店舗で販売する際には店員に対し、販売に応じたメーカーからの手数料やリベートを還元すると約束していたそうです。しかし、実際にはAはその約束をほとんど守らず、メーカーからの還元分も含め、いろいろな手段で自分の利益として横取りしていたというのです。このように、Aさんは長年そうしていたらしいと、Bさんは教えてくれました。
その日、Bさんの話を聞いたとき、私は言葉にならないほどの衝撃を受けました。「なんと、そんなことだったのですか! Aさんがあのような方法で手に入れたお金は、どれだけの徳を失うことでしょうか。ああ、人は邪党の社会で流され、邪党に染まって堕落してしまうのですね。かつての純粋で善良だったAさんも、このような姿に変わってしまったとは…」。不正な方法で得た財産が、いつか彼自身にどれだけの害をもたらすことになるか分かりません。それが一体、何を羨んだり妬む必要があるのでしょうか。その瞬間、Aさんに対する妬みはすっかり消え去り、ただ彼に対する哀れみと心配だけが残りました。
その瞬間から、私は以前自分にあった嫉妬心をはっきりと認識し、不満でいっぱいだった自分の姿が滑稽に思えました。執着に囚われ、視野が曇って抜け出せなくなっていた自分が恐ろしくも感じられました。どうしてあれほどまでに執着してしまっていたのか…。執着を取り除くこと自体は難しくないのですが、最も難しいのは、自分がその思考や行動に執着していることを認識できないことだと気付きました。
それでは、どうやって取り除くことができるでしょうか? その後、私はまた一つの理解に至りました。それは、ある執着が現れると、それを取り除くのが難しく感じることがあり、そうした場合はその執着の背後に大きな業力があるのかもしれません。それを消滅し、転化することは容易ではないからです。また、私たちは正法修煉をしており、人としての執着や人心の取り除きと正しい方向への修正は、無数の衆生の救済と整合に繋がっているため、そう簡単には行かないのだと理解しました。
「ああ、やっと理解できました。あの日々、私の上司が別のマネージャーに対して嫉妬を抱いていたのは、実は私に見せるための『演技』であり、私に気づきを与えようとしていたのです。ところが私はその意図に気づかず、むしろ上司を見下し、厚かましいと思っていたのです」
私たちは、最も迷いが深いこの人間社会で修煉を行っており、様々な人心や執着が強く、時には自分でもそれに気づけないことがあります。では、どうすればよいのでしょうか?
一つは、法を学ぶことを決しておろそかにしないことです。法は、私たちに正邪、善悪、良し悪しを見分けるための知恵と能力を授けてくれます。
そしてもう一つは、周りの人や出来事に対して、自分自身を省みる材料として捉えることです。他人が間違っていると決めつけたり、他人を変えようとするのではなく、まず自分にその原因がないかを考えることです。周りの人の行動や表現には理由があり、それが私たちに何かを気づかせようとしているのではないか、または自分の姿を映す「鏡」なのかもしれません。本当にそうなのです。自分の執着の原因を見つけ、修正した後、数日も経たないうちに、上司とそのマネージャーはまた以前のように仲良くしている姿を見かけました。まさに、私に見せるための「演技」だったのです。
その後、私は何度も気づきました。地元の同修と私の間に隔たりや矛盾が生じたとき、会社の2人の上司が互いに陰口を言ったり、相手を軽蔑したり、見下したりするような言動を私の前で見せるのです。しかし、私が自分を正し、同修との協力がうまくいくようになると、世間の側でもすぐに上司同士が和やかに接し始め、お互いに相談しながら協力するようになるのです。本当に不思議なことです。
その嫉妬心が表れたとき、それを取り除いた後、私は利益に関しての嫉妬心がほとんどなくなったことに気づきました。
今では、どんなに他の人が物質的な利益を得ていても、たとえ金山を持っていたとしても、私はもう羨ましいとは思わず、嫉妬もしません。なぜなら、私はすでに理解しているからです。人間の物質的な利益は、生まれながらに持っているものではなく、死後に持ち去ることもできません。それは長く続くものではなく、末法乱世ではなおさら一瞬の危うさを抱えているのです。そして、それが正当なものであれ、不正なものであれ、すべては最も貴重な徳と引き換えに得るものです。私たち大法弟子は、徳によって成就を得るべきであり、この功は永遠に身につけることができます。正法時期の大法弟子が師父を助け、衆生を救う中で築いた威徳は、非常に巨大で永遠のものです。人間の世界のような、過ぎ去る煙のような小さな物質的な利益に、何を羨む必要があり、何を嫉妬する理由があるのでしょうか。
私は同時に、もう一つの心を見つけました。それは、人間社会でいう「美しい」ものへの執着、憧れ、そして未練です。だからこそ、以前、金持ちや権力を持っている同級生や親戚、知人たちの前では、特に彼らが自慢しているとき、常に抑えきれない不快感や反感、さらには劣等感を感じていました。そのため、何年もそのような人々の前で真相を話す時は、障害を感じ、うまく話せないと思っていました。今、私はそれが嫉妬心と名利心が引き起こしていたことに気づきました。
嫉妬心と名利心を手放した後、私は以前のような感覚を持つことはなくなりました。貧富や地位に関係なく、すべて平等に見ることができるようになりました。すべては哀れな衆生であり、皆、師父の親しい者であり、大法弟子が救うべき人々なのです。私がこの点で心を正したので、もう私の前で他の人が富を自慢したり、権力を誇示したりすることはありません。それで、私は今、いつも自分に言い聞かせています。他人のどんな振る舞いを見ても、最初に自分の問題や原因を見つけるべきだと。
(続く)