文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年12月4日】私は1995年に法輪大法の修煉を始めました。今年で60歳になります。修煉を始める前、私は争う心が強く、表面上は他人と口論することはありませんでしたが、心の中ではひどく悶々としていました。
結婚後は、姑や小姑達にしばしば意地悪をされました。そのために心を病み、体にも多くの病を抱えるようになりました。関節炎、心臓の間欠症状、頻繁な月経不順、腹腔内の腫瘍、そして頸椎の湾曲が真っ直ぐになって起き上がることもできず、他人の助けを借りなければ生活できない状態でした。その上、胸水も患い、24時間横になることができないほどで、自ら命を絶ちたいと思うほどの苦境に陥っていました。
大法の修煉で怨恨心を手放す
1995年9月、母の誕生日を祝うために子どもを連れて実家を訪れました。母や姉妹たちと顔を合わせると、私は過去の様々な出来事について話し始めました。当時、母は法輪大法の修煉を始めたばかりでしたが、私の話を聞いた母は、「それは、あなたが前世で人に借りがあったからですよ」と言いました。
私は驚いて、「私はいつも損ばかりしていて、明らかに向こうが悪いのに、どうして私が借りがあるなんて言えるの?」と言いました。 母から慰めの言葉を期待していたのに、逆に自分が悪いと指摘された気がしました。そのため、内心とても不満になって、食事を終えるとすぐに家に帰りました。
家の近くには小さな児童書店があり、立ち寄って尋ねました。「お兄さん、『轉法輪』はありますか?」すると店主が「あるよ、ちょうど1冊だけ。12元だ」と答えました。家に帰ってから『轉法輪』を開いて読み始めると、それを手放すことができませんでした。人生でずっと知りたかった多くの疑問に、この本が答えてくれたからです。
私は一昼夜を費やして、夢中になって『轉法輪』を読み終えました。その間、食事も忘れ、眠ることをしませんでした。本を読み終えた時、まるで自分が別人になったかのように感じました。心境が一変し、物事の見方や世界観までもが変わったのです。
私は、人に不条理に虐められることの背後には、自分が過去に良くないことをし、人を傷つけたり、害を及ぼしたりした結果があるのだと悟りました。それは、自分がかつて作り出した業の借りを返しているのだと理解したのです。
こうして私は怨恨心を手放し、心が穏やかになりました。不思議なことに、いつの間にか全身の病がすっかり治っていました。そして、私は法輪大法を義理の家族にも紹介しました。その後、義父、義母、小姑、小姑の夫もみな法輪大法の修煉を始めるようになりました。
北京で大法を証明する
1999年7月に中共が法輪大法を迫害し始めた後、私は大法のために公正な声を上げるため北京に行きました。私は幼いころから住んでいる街を出たことがなく、北京へ行くのも初めてだったので、全く勝手が分かりませんでした。出発が遅くなったため、北京に着いた時にはすでに夜になっていました。
私は同修と一緒に小さな旅館を見つけましたが、身分証明書がないという理由で宿泊を断られました。何とか頼み込んで泊めてもらえることになりましたが、その後、フロントのスタッフが一本の電話を受けた後、態度を変え、「何を言っても泊められない」と言われました。(おそらく当局からの通知があったのでしょう)仕方なく、私たちは子どもを連れて旅館を後にしました。道中、私たちは商店の前を通り、一人ずつ大きな防寒服を購入しました。当時、北京へ向かう道中は厳重に警戒され、どこに行っても監視がありました。そのため、私たちは香山に行き、一夜を過ごしました。翌朝、外に出ようとした時、香山公園の入口で非常に高い山を目にしました。山門には幾重にも連なる高い階段があり、何段あるのか見当もつきませんでした。階段の頂上にある山門の看板には「接引佛(仏を迎える)」と書かれていました。
これほど高い階段を見上げ、私たちは「せっかくここまで来たのだから、登ってみよう」と話し合い、一歩一歩階段を登り始めました。その時、私たちの心は感動で胸がいっぱいになり、目には涙が浮かんでいました。歩みを進める中で、師父が弟子を救い導くためにどれほど大変で苦労されているかを深く感じました。
何年も後になって、同修とこの出来事を振り返って話したところ、同修はこう言いました。「そんな山なんて香山にはないですよ。それに『接引佛(仏を迎える)』の看板もない。きっと師父があなたたちを励ますために演化されたのかもしれません。あるいはあなたたちが別の空間に行ったのかもしれないです」。その言葉を聞いて、私は初めて悟りました。
慈悲深く偉大な師父が、いつも私たち一人ひとりの大法弟子を励ましてくださっていたのです。
師父が危機から私を助け出してくださった
2004年、私は悪人に尾行され、自宅に戻った後、扉を叩く大きな音を聞きました。その異様な音に、私はただ事ではないと感じ、すぐに夫に電話をかけ、「すぐに帰ってきてほしい」と伝えました。私は心を落ち着けて正念を発しましたが、内心ではまだ不安でした。そこで、師父に助けを求めたところ、頭の中に「出る」という一念が浮かびました。私の家は高層階にあり、家の玄関には警察が、建物の出入口にも警察が待ち構えていました。この状況でどうやって「出る」のかと考えましたが、窓の外を見て、思い切って窓から外に出る決意をしました。隣の建物の窓までたどり着くと、そこで近隣の住人に事情を説明し、窓を開けてもらえるようお願いしました。彼は状況を理解し、窓を開けてくれました。私は窓から中に入り、簡単に事情を説明し、感謝の気持ちを伝えました。「あなたがしてくれたこの善行は素晴らしいことであり、必ず福報を受けるでしょう」と話しました。
私はすばやく建物の出入口を抜け出しました。しかし、この住宅区はU字型で出口が一つしかなかったため、仕方なく奥の方向に進みました。行き着いた先は壁で行き止まりでしたが、そこに積み上げられた雑多な物の上に足をかけ、壁を乗り越えました。そこは別の家の小さな庭で、幸運なことに人影はありませんでした。私はその庭の門を開けて外に出ると、ちょうど一台のタクシーが停まっていました。運転手は車のドアを開け、「早く乗りなさい。どこに行く?」と声をかけてくれました。私は車に乗り込むと、思わず涙がこぼれ落ちました。心の中で、師父が再び弟子を救ってくださったことに深く感謝しました。
後になって警察が、「私たちはずっと君の家の玄関で待ち伏せしていたのに、一体どうやって逃げたんだ?」と尋ねました。彼らは不思議で仕方がない様子でした。私は窓を開けてくれた隣人を守るため、ただ「それは天機なので明かすことはできません」と答えました。
同修を助けた際に現れた奇跡
2009年、ある同修がインターネットの使い方を学びたいと言っていました。ある日、彼の家を訪れましたが、時間が限られていたため、作業を終えるとすぐに帰ることにしました。私が家を出る際、彼は「また会える日が来るでしょうか?」と 涙を浮かべながら言いました。
当時、私たちはまだメールで連絡を取り合う方法を知りませんでした。1999年の「7.20」以降、この同修とその妻は自宅で独自に修煉を続けており、他の同修と再び会えることを心から望んでいました。私は彼に「ご縁があればまた会えるでしょう」と答えました。
1年以上が過ぎ、その同修が涙を浮かべて見送ってくれたその情景が、私の心に鮮明に浮かび続けていました。そこで、私は再び師父の経文と『明慧週刊』を持って彼の家に行くことに決めました。しかし、彼らの住んでいる小区に着いたものの、住所が思い出せなくなってしまいました。記憶の中では、彼らの家は一階で、小さな庭があり、緑色の柵があったはずなのに、今はそれが見当たりません。
私は師父にお願いしました。「師父、どうか弟子に道を示してください」。その願いが心に浮かんだ瞬間、まだ反応する前に、彼の家の小さな庭が目の前に現れました。その瞬間、私はとても感動し、師父が常に弟子を守ってくださっていることに心から感謝しました。
私は戸をノックすると、同修が出てきて私を見てまた涙を流しながら、「あなたが来ると分かっていました!」と言いました。彼の妻も、師父の経文と『明慧週刊』を抱えて涙を流しました。私たちは再び、師父が私たちに共に精進し、師と共に正法の道を進む機会を与えてくださったことに、感謝の気持ちを込めて頭を下げました。
(続く)