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魔難に陥った同修に慈悲をもって接する(一)


文/中国の大法弟子

(明慧日本)魔難に直面している同修に対して、どのように慈悲をもって接したらいいでしょうか? 私たちは正法の道を歩んできて、このことはすでに分かっており、考えるほどのことではないと思っています。例えば、同修が迫害を受けたら皆で発正念をして救出し、同修が病業に苦しんでいれば、皆で発正念をして取り除いて成功した例を明慧ネットでよく見受けます。しかし、個人的に考えると、魔難に陥った同修への対処について、多少なりとも誤解があり、その視点にも問題があると思います。

 10年にわたる正法の進展の中で、今日まで辿りついた真の大法弟子は皆、法を実証しており素晴らしいのです。一方、人間としてよく修めてできた部分は隔離され、円満成就するまでに現れるのは、人心と修煉の不足の部分であることも事実です。中国本土で迫害が続いており、同修が魔難に直面する中で私たちがどう対処するか、その第一の念がとても重要です。

 しかし数年来、皆さんの頭の中に一種の固定観念がありました。旧勢力の按排を否定すると口にはするものの、いったん同修が迫害されたり病業になったとき、第一の念は、「きっとあの人に漏れがあり、邪悪に隙に乗じられたのだ」と思うのです。そして、他の同修へ発正念をすることを知らせながら、本人の不足を逐一探し、漏れなく暴くのです。普段何もない時には、互いに人の欠点や不足はあまり言いません。そういうことは、師父が要求されていないと知っているので、法にそぐわないことは決してしませんが、いったん何かあったら物事を分析して、ついつい同修の欠点を探し、互いに論じてしまいます。このようにすることは、旧勢力と何の違いがあるでしょうか? この基点から同修に対処することは旧勢力の迫害を強化することにならないでしょうか? そして隔てを作ってしまい、発正念をしても、その力があるでしょうか?

 長い間、なんとなく良くないと思いながらも、この問題に対して明晰な認識ができず、つい最近、切実な体験がありました。

 私はかつて職場の幹部であり、仕事において有能な人間ですが、修煉してからこれらの常人の事を、法を実証する活動などに使いました。地域の同修を集めて、真相資料を印刷したり、DVDディスクを焼いたり、『九評』を作って配っていました。普段は順風満帆であったため、たまに危険に遭遇しても何とか無事に終わりました。こうして、時間が経つにつれて徐々に活動をすることを修煉だと勘違いしてしまい、学法をしても落ち着かず、ノルマを達成しているようで、真相を伝える時にも歓喜心、顕示心、自己満足の心が現れ、自己を実証する心が芽生えてしまいました。たまに自分の事に対して内に向かって探しますが、まだ執着を探し出さないうちに、それは新たな「実績」に隠されてしまいました。結局『九評』を配り、三退を勧めた時に告発されて、洗脳班に拘禁されました。また長い間静かに学法ができず、執着心、恐怖心などがあり、邪に悟ってしまいました。

 釈放されてから学法をして、自分の過ちを認識しましたが、なかなか邪に悟った痛みから立ち直れませんでした。他の同修と交流したかったのですが、なんとなく同修達が陰で私の欠点を言っているように感じ、さらに噂が私にまで聞えました。すると私は一層ほかの同修と会いたくなくなり、明らかに隔てられてしまいました。

 (続く)

  2010年1月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/12/23/214852.html

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