日本明慧
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しっかり修める(一)


文/海外の青年大法弟子

(明慧日本)
 
 他人のためを思い、一人一人の同修を大切にする
 
 私は先日読んだ、この方面の交流文を思い出し、感慨深く感じました。私はある日の夜、同修の家で行われた集団学法へ参加する前、急いでいて何も食べていませんでした。私は同修の家に着くと、まず「何か食べたい」と言いました。当時、私は同修の気持ちを何も考えていませんでした。その同修はすぐ食べ物をくれましたが、隣にいる同修はこれを見て容認できず「あなたは本当に他人のことを考えていないですね。あなたは彼がまだ何も食べていないのを見ていないのでしょうか? あなたはお腹が空いたとよく言えますね」と、怒って私に言いました。私は驚き、自分の中に利己心があることに気付きました。同修の気持ちを何も考えていませんでした。その後、交流のとき、私は心にやましさを感じ、自分は真の修煉者のように行えていないと思い、同修にお詫びしました。相手は穏やかに「私は本当に気にしていません。あなたも気にしないでください」と言ってくれました。同修はこんなに他人のことを思いやることができ、自分はこの面でしっかり修めなければならないと思いました。
 
 その後、この同修は再び私と交流し、「同修間の縁はとても貴重で、どれほどの苦労を経て集まることができたのか分かりませんが、一人一人の同修を大事にしてください。私は一人一人の同修が皆、神であるのを見たとき、同修に対する良くない心、念はすべて消えました。実際、同修は皆、神への道を歩んでいる人で、このように同修のことを考えたら、以前とは異なります」と言いました。
 
 当時、私はまだ、この同修が悟ったようにはできていませんでしたが、同修との交流と、法の中での認識を通して、私は1つの理を悟りました。一人一人の大法弟子は皆、一地方の衆生を代表し、重大な使命を背負い、大法を実証し、衆生を救い済度することを行っています。その過程で時々、人心が現われることがありますが、それも自然なことです。同修の良くない部分を見ず、同修の良い部分を見て、自分の不足を修めるべきです。
 
 ある同修は集団学法の後の交流のとき、大法弟子の母親が中共警官に「あなたの主人は大法弟子ですか?」と聞かれたときに「大法弟子は皆、真・善・忍の要求に基づかなければなりませんから、主人にはまだその資格がありません」と答え、この一語から父親を救うことが妨害され、結局、父親は長きにわたって修煉に入らなかったことを語りました。
 
 私はこの話を聞いてとても辛く感じ、いかなる人に対しても良くない念が生じてはならない、と思いました。特に、同修に良くない念が生じたら、邪悪にはこの執着が見え、迫害の根拠をつかみ、この執着を拡大させて魔難を大きくさせるのです。この点を認識してから、私は同修に対して良くない念が生じたとき、すぐに意識して取り除くことができました。自分を本当に修めることができたとき、自分の体内にあるこの物質が、徐々に減っていったのが分かりました。すると、まわりの一人一人の同修は皆、とても偉大であると気づき、自分の周囲の環境も変わりました。私はこの経験から悟ったのですが、表面に見えたものは真実ではなく、もしかしたら虚像であるかもしれず、それは自分の心を放下できるかどうかを試すものだと思います。
 
 その後、私は自分の中に、後天的に形成された良くない観念がまだあり、頭の中で時々現われることに気がつきました。師父は「以前既に話しましたが、実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです」(『二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法』)とおっしゃいました。ときに私は、自分の考えを用いて、つまり後天的に形成された観念を用いて物事を見ていました。例えば、年齢が近い1人の男性と1人の女性が一緒に食事しているのを見ると「この2人は何か特別な関係があるのだろうか」という一念が生じました。実際、自分の中に、この良くない観念があるから、この一念が生じたわけです。このことから分かったことは、大法を用いて物事を見れば、良くない観念が徐々に消え、衆生を救い済度することへの妨害も減るということです。
 
 私が同修Aさんと交流したとき、彼はあることを話しました。ある日、同修Bさんは彼に自らの困難を訴え、言っている間に涙が出て「なんで誰も助けてくれないのでしょうか」と文句を言いました。その後、Aさんはネットで私に「私たちはこの同修を助けましょう」と言い、どのように助け、どのように法でBさんを啓発するかを話し合いました。私は、同修を助けようとするその心が本当に純粋で、Aさんは完全に他人のために考えていると思いました。
 
 しかしその後、AさんはBさんが訴えたことが、事実と異なることに気づき、自分の心が傷つけられたと感じました。私はその話を聞いて、Aさんに「今度Bさんが訴えてきたら、Bさんに『泣いても何も解決できず、泣けばこの良くない物質が取り除けるの?』と注意してください」と言いました。その後、この考えは良くないと感じ、「私はなぜ同修のためを考えることができないのか」と思いました。このように考えたとき、一種のエネルギーが心の底から涌いてきました。これは大切という心そのもので、同修の涙を見たとき、同修を大切にしようとするその心でした。
 
 師父がおっしゃったように「自分をずる賢くし、丸くしてしまえば、悪くなったのです。悪い人とは何かについて話したことがあるでしょう。ずる賢い人は悪い人です。やさしくて、複雑な考えのない人は良い人です」(『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』)私は以前の良くない考えが消え、師父が説法の中でおっしゃった「大切」という言葉の、他の次元の意味も感じることができました。
 
 (続く)
 
2011年04月26日

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