「発正念」 の作用について
文/中国の大法弟子
(明慧日本)同修の皆さんこんにちは。最近、当地において、続けて同修が強制連行されましたが、私の考えを述べたいと思います。
この2年来、当地区において大法弟子が絶えず迫害されています。正法の進展は最後の段階まで来ているにも関わらず、何故環境がよくならないのでしょうか? 私は、自分のどこに隙があったのかを深く探してみました。私は師父の写真の前に正座して「弟子の隙の根源はどこにあるのでしょうか? どうかご啓示してください」とお願いしました。
私は師父の経文を学法することにしました。経文を開いたところ、師父は以下のようにおっしゃいました。「本当の善とは、修煉者が修煉の過程で、善をもって修めている過程ですでに出来上がった本当の善のことです。衆生を前に、あなたにまだ修煉してできていない人間の部分があるため、修煉してできた神の部分を完全に表出させることができません。必要なとき、あなたは理性をもって、冷静になり修煉者らしく振舞わなければならず、自分の責任、自分の正念が主導的になるようにしてはじめて、あなたの本当の善が現れます。これは修煉者と神との違いです。これは慈悲であり、わざと表したのではなく、人間の善悪と好みの表れではありません。やさしくされたら善をもって接するということではありません。それは代価がなく、報酬も気にせず、まったく衆生のためのものです。ですから、慈悲が現れると、この上ない力があり、いかなる良くない要素も解体されてしまいます。慈悲深くあればあるほど、力が強くなります。以前、人類社会に正理がないため、人間は善をもって問題を解決することができなかったのです。人間は従来、戦争という手段で人間の問題を解決していたため、これは人間の理となりました。人間は神になりたければ、人間の状態から脱皮したければ、この心を放下し、慈悲をもって問題を解決しなければなりません。
実は慈悲は巨大なエネルギーであり、正神のエネルギーなのです。慈悲であればあるほどエネルギーが強く、どんな良くないものも解体されます。これは以前釈迦牟尼もほかの修煉者も話したことのないことです。善の最大の表現は慈悲であり、慈悲は巨大なエネルギーの現れで、すべての正しくないものを解体することができます。もちろん、慈悲の能力は次元が高まるにつれ、増強していくので、慈悲も次元の高さによって制限されています。力は次元の果位の高さによって決められており、これも間違いのないことです。」(『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法 』)
師父の啓示を目にして、私は涙が止まりませんでした。慈悲なる師父は私の心を開かせてくれ、私は隙の根源を見つけることができました。長年修煉してきましたが、自分には善の心、慈悲な心がなかったのです。本当に恥ずかしく思いました。
今日まで自分が歩んできた修煉の道を振り返りますと、発正念は師父が弟子に賜った邪悪を解体し、衆生を救う佛法神通なので、それは慈悲の現れなのです。しかし私は長年恨みを持って発正念してきたので、師父の法に背いていました。私の悟りなのですが、もしかすると、これが当地の環境がよくなっていない最大な原因かもしれません。
同修はよく「こんなに長期間、発正念をしてきましたが、誰々はどうして悪の報いに遭っていないのか?」と言っています。そして「さらに発正念の密度を高め、誰々を悪の報いに遭わせる」と言うのです。話す過程で、怨みを込めて語句は強く、この迫害を人が人を迫害していると理解しているのです。
私の悟りでは、発正念の効果は自分の心理状態によります。悪の報いに遭うべき人であっても、彼はまず人間であり、救われるべき生命なのです。私たちが発正念をするのは、その人の背後にある邪悪要素を取り除くことであり、彼を救うためであり、怨みや、憎しみを持って発正念してはなりません。もしその人の背後で操る邪悪要素がなければ、その人は何かできますか? このように人心を持って発正念するのは、効果がないだけでなく、その人の空間場によくない物質を送り込み、その人をますます悪くさせてしまうのです。
例を一つ挙げましょう。ある時、重い病業に苦しむ同修のために、20人の同修が集まり発正念をしました。その内の1人は天目が開いた状態で修練しており、その同修の見たところでは、正念の力が現れたのは、20人中ただ2人だけでした。その2人は慈悲の心で発正念をしていましたが、ほかの同修は情を持って発正念する人もいれば、観念を持って発正念する人もいました。彼らが発した正念は、病業の同修を助けておらず、逆に良くない物質をその同修の空間場に送り込み、病業の同修は余計に苦しまなければならなかったそうです。このことを通して私は悟ったのですが、発正念の効果が現れるかどうかは、心理状態によります。慈悲や善念を持って発正念すれば、法の威力が現れるのです。
もう一つ例を挙げましょう。ほかの地区の610弁公室の頭目は、長期にわたって大法弟子を迫害してきました。しかし当地の大法弟子は、その頭目に対して恨みや憎しみを持っておらず、慈悲の心で真相を伝え、発正念し続けていました。その後、この頭目は脳血栓で倒れましたが、同修はやはり真相を伝え続けました。しかしこの頭目は真相をどうしても受け入れようとしませんでした。ある日、彼の家族が出かけているとき、その頭目が一人で水を汲みに行ったところ、1メートルほどの高さの貯水槽に頭を突っ込み動けなくなりました。家族の人が戻ったときは、彼の頭は変形していました。この出来事を通して私が悟ったのは、物事を行うにあたっては、自分を修煉しなければならず、過程を重視し、結果を重視してはなりません。彼の結果は、彼自身の選択なのです。観念を変えれば、神と人の念は一念の差なのです。
以上は当地の同修が強制連行されてから、内に向けて探して悟ったわずかなことです。次元が限られており、不適切なところがあれば、ご指摘をお願いします。
2011年05月10日
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