日本明慧
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常人の善良さと修煉者の善について 文/中国大法弟子 (明慧日本)幼いころから、私は自分は善良な人だと思っていました。修煉し始めてから自分は、善を修めることについてはなんの問題もないと思い込んでいました。今日、師父の『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』を学法しました。師父は「以前にも私たちに善とは何かについて話したことがあります。相手に笑顔を見せ、やさしそうに見えれば、それが善だと言っている人がいます。それは人間が表している友好さであるに過ぎません。本当の善とは、修煉者が修煉の過程で、善をもって修めている過程ですでに出来上がった本当の善のことです。衆生を前に、あなたにまだ修煉してできていない人間の部分があるため、修煉してできた神の部分を完全に表出させることができません。必要なとき、あなたは理性をもって、冷静になり修煉者らしく振舞わなければならず、自分の責任、自分の正念が主導的になるようにしてはじめて、あなたの本当の善が現れます。これは修煉者と神との違いです。これは慈悲であり、わざと表したのではなく、人間の善悪と好みの表れではありません。やさしくされたら善をもって接するということではありません。それは代価がなく、報酬も気にせず、まったく衆生のためのものです。ですから、慈悲が現れると、この上ない力があり、いかなる良くない要素も解体されてしまいます。」(『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』)と教えてくださいました。 (English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/5/22/125452.html) |
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