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病業の関についての認識


文/中国の大法弟子

(明慧日本)『明慧週刊』の第488号で、ある同修は「病業」の関の幾つかの異なる状態について言及したことがあります。それらのことに対して、私は個人の悟りを述べたいと思います。
 
  多くの同修は、現段階で現れている体の正しくない状態について、依然として「病業」あるいは「病業の関」だと理解しているようですが、私はそうではないと思います。私は邪悪な生命が、古い修煉者の悟っていない幾つかの観念の隙に乗じ、肉体に迫害を加え、法を正すことを邪魔しているのだと思います。その目的は、正法の進展を妨害することにあり、同修の病業の関を乗り越えさせないところにあるのではないかと思います。
 
 師父は『北米での巡回説法』の中で、「私は1999年の7月20日に、既に7月20以前の学習者を全部所定の位置に押し上げ、皆さんの最高位置まで押し上げました」とおっしゃいました。新しい修煉者を除いて、師父は1999年7.20以降、私たちの個人修煉にいかなる関をも作ったことが無いのです。私たちの個人修煉は、全面的に衆生を救い、法を実証する中にあります。私は師父の教えから、私たち古い修煉者の修煉は、1999年以前の個人修煉の段階ではなく、衆生を救い、法を実証する中で、法理に合わない全ての観念を取り除く所にあると悟りました。師父が私たちに残された人間の観念は、この世で生存しながら衆生を救い、法を実証する中でそれらの観念を見分け、排斥しながら修煉することにあると思います。このようにすれば、師父は私たちの人心をご覧になり、これらの観念を取り除いてくださると思います。そうして、三つのことを行う過程で、残された業力も取り除かれていくのです。
 
 師父はすでに古い修煉者には、関を按配していないと明確におっしゃいました。しかし、私たちには執着するという観念があり、それを見分けることができない時は、ちょうどそれらの観念を否定できない時で、その問題について邪悪に隙に乗じられ、旧勢力が按配した道を歩むようになってしまいます。私は邪悪の黒い巣に監禁されている同修と、体に正しくない状態が現れている同修は、すべて邪悪による妨害と、迫害の形式に陥ってしまっていると思います。そのような時こそ内に向かって探し、同時に、これらの迫害の形式を否定することがとても重要で、このような形式を決して関だと思わないでください。
 
 他にも、ある同修が大法のために多くのことをしていたけれど、最後には病業の迫害により、この世を去っていたことに言及した所があります。私が思うには、この同修は法理に対する悟りが不足していたのではないかと思います。個人修煉と正法時期の修煉との違いに対しての認識、あるいは衆生を救い、法を実証する私たちの責任に対する認識、あるいは旧勢力の按配と、師父の按配の根本的な違いについて、理解が不足していたのではないかと思います。
 
 学法を通じて、師父はすべての能力を持っておられるので、今日私たち大法弟子が何もしなくても、たとえ三界に降りて来なくても、元の世界にいたとしても、師父は正法を成功させます。もし私たちが、ただ自分の円満成就だけを考えているのなら、当初三界に降りて来なくとも、世間に入らず、元の世界で法に同化したとしても、師父の正法は成功することができる、と私は理解しました。しかし、私たちはなぜ困難と危険を恐れずに、この世に降りて来たのでしょうか? それは、私たちも師父に手伝い、法を正す願望があったからであり、同時に宇宙の中で、最大の威徳を樹立するためだと思います。この上ない素晴らしい威徳の樹立は、個人の円満成就で達成できることでしょうか? この世で多くの悪がはびこっている中で、自分を修めながら、私たちと同じように、同時に困難と危険を恐れずにこの世に下りて来た、かつての異なる天国の王、主だった縁のあるこの世の人たちを救って、それによって私たちは威徳を樹立するのです。
 
 師父のおかげで元の位置へと上がっている、神の一面が復活している大法弟子よ、私たちは今、神の考えで自分の体を妨害する邪悪を含む、全ての邪悪を取り除いています。内に向かって探し、自分の観念を探して、それを否定し、同時に思想の中での邪悪のすべての妨害を否定しなければなりません。いわゆる病業の関を含めて、全ての関を承認してはなりません。それらは旧勢力が、いわゆるあなたを試すために按配したものです。
 
 通常、私は妨害された時に、いつも内に向かって、自分の執着する観念を探し出して、それに対して「それらの観念は私のものではない。私はいらない。すべての妨害を承認しない」と強く一念を発します。すると、体は自然に回復してきます。
 
  最後に私は、もう1つのことに対して述べたいと思います。ある同修は、繰り返し迫害される回数が多いのです。それについての私の悟りは、「このような同修は、いつも自分が迫害された時のことを思い出して、もし次回、また同じことに遭った時はどうするかなどと考えています。実は、邪悪の現れと私たちに対する迫害は、全く承認してはなりません。再びかつてのことが思い出された時は、あれらの邪悪と、自分のこの考えの全てを否定しなければなりません。同時に、迫害された時に、自分が隙に乗じられたすべての観念を排斥し、それを思い出す必要はないと思います。
 
 以上は私の個人の悟りですので、完全ではなく、正しくない所については、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
 
2011年06月19日

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