交流して、お互いに協力する
(明慧日本)修煉年数の長い修煉者が、体験談で「真相を伝える時に一部の人は反感をいだきます」と話しました。私は、「自分はいつも話が多すぎる。少しだけ話して、先に他の同修の発言を聞こう」と思いました。同修たちの発言を聞くと、言っていることはほとんど同じだと感じたので、私は自分の考えを話しました。「おばあさんの話だと、私たちがよく修めてないから、話に法の力がなく、相手を変えられないと言います。師父は『口から蓮の花が出る』とおっしゃいました。しかし、私達は話すときに何を出しますか? それは執着で、闘争心、恐れる心、心配する心などで、良くない物質です。それは常人が持っている良くない物質と一つの場を形成します。どうやって常人を救うのでしょうか?」 ここまで話して、私はすぐに、この話は私が言った言葉ではないと悟りました。これは、大法の知恵が自然に現れたのでした。私にほんの少し、他人が先で「自分は後」という一念があったから、師父は私を悟らせてくださったのです。
実際、交流をするときに、どうして同修の欠点だけを話し、同修の長所を話さないのでしょうか?! 同修は時に間違うことがあります。しかし、同時に良い面があります。私はなぜそれを言わないのでしょうか? 十数年も大法を学んで、私は「間違った話」、「うそ」を話し、本当の状況を見て見ぬふりをしていました。これらを認識した後、心の中で深く反省しました。「全部私が間違っていました」
同修と交流する時、正法の進展は、同修同士の間隔を打ち破って全体を形成し、もっと大きな神通力を発揮することを求めていると悟りました。どのように間隔を打ち破るのでしょうか? 話しているうちに上に述べた事を思い出して、間隔をもたらす原因はほかでもなく、自分であることが分かりました。自分の言動が間隔を作る作用をもたらしており、自分が間隔をもたらす本質的な原因でした。
師父は『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』で私達におっしゃいました。「修煉は自らを修め、内に向けて修め、内に向けて探すべきです。皆これができれば、どんな問題も解決され、これは協調をとる最も良い方法で、最も有効な手段であり、なぜこのようにしないのでしょうか? 管理をする側に責任があり、協力する側にも責任があり、いずれも責任があります。皆さん考えてみてください。私たちはいつも相手が協力しないとか、管理者に問題があるとかを言っていますが、いずれも外に向けて探し、外に向けて修めており、相手の間違いを探しています。なぜ自分を探さないのでしょうか? 本当にしっかり行い、正しく行うことができたら、相手はどのようにあなたを見るのでしょうか? 責任者は急いで仕事を進めたいと思っていますが、自分のどこがしっかり行なえず、学習者がなぜ自分の話を聞いてくれないのかと考えないのでしょうか? ですから、必ず考えなければなりません。それが修煉なのです。それがすなわち、修煉なのです!」
法のこの段落を読んで、自分の学法がしっかりできていないと深く認識しました。師父はすでに、最も有効な手段である法の宝を教えてくださっていたのです。私は挫折してようやく法理を認識することができました。悟りには限りがあります。また、修煉は確かに深く内に向って探すことだと認識しました。もし心を込めないと、師父が教えてくださったとても明白な法理も、見ていながら見えないふりとなります。同時に、師父の教えも分かりました。今の正法の進展において、間隔を打ち破って全体を形成し、お互いに協力してもっと大きな神通力を発揮しなければなりません。
2011年06月23日
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