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学法の重要性について悟る


文/中国遼寧省の大法弟子

(明慧日本)師父は私たちに「法を多く勉強し、よく勉強する」よう求められましたが、私はその通り行わず、学法に力を入れず、学法するとき、集中が途切れたり、眠くなったりしました。また近くのビルの下に野菜を栽培するなど、毎日無意味なことに忙しくしてしまいました。私は師父の按配された道をしっかり歩まなかったため、旧勢力に隙に乗じられ、病魔に妨害されました。今年の2月の初め、左膝の2本の筋が痛くなって、脚をまっすぐ伸ばすことができなくなり、歩くと足を引きずるようになりましたが、あまり不便ではなかったので、私はそれを気にせず、内に向けて探さず、正念も発しませんでした。6月になったある晩、私は突然脚が痛くなって歩けなくなり、脚が張り、動功もできなくなりました。しかし、脚は赤くなったり腫れたりはせず、ただ痛いだけでした。その時、私に人間の考えが浮かんできました。そのため私は、熱い水を脚の上に載せて脚を温めてみましたが、何回やっても効果はありませんでした。その後、私は同修にアドバイスされて内に向けて探し、正念を多く発してみましたが、効果はありませんでした。
 
 やむを得ない状況で私は「とりあえず何もできないから、おちついて、しっかり学法しよう」と思いました。この一念を発し、法を取り出したとき、まだ法を学び始めていないのに、私は左足の中心から冷たい風が出て行き、脚もそれほど痛くなくなっていることに気付きました。私は明確に、学法がいかに重要か、修煉はいかに厳粛か、師父の教えに背いてしまえば、結果はどれほど厳重であるか、ということについて深刻な教訓を得ました。
 
 このことは表面からみると、とても平凡な出来事に見えますが、しかし私のように、三つのことをしっかり行うことができず、旧勢力の按配した道を歩んでしまい、最終的に迫害されて肉体が死亡した同修は、法を正し衆生を救い済度することに対して、極めて大きな損失をもたらしてしまったため、これは極めて厳粛な問題であると思いました。
 
 師父は『更なる精進を』で、「このすべても最後の終わりに入っていると私は思いますが、ただ多くの人はこの現実の一歩一歩の進展を認める勇気はありません。最後の時刻がやってくる前に、救い済度される衆生の人数はまだ予定に達しておらず、一部の大法弟子はまだついてきていないので、これがまだこのことが完成できないことの理由です」と説かれました。
 
 この部分の説法を思い出すたびに、私は本当にとても苦しく思います。私のように精進しない弟子が、法を正す進展に付いていくことができず、衆生を救い済度することを遅らせ、法を正すことの終了時間を遅延させ、師父に心配をかけてしまいました。本当に悔いても間に合いません。
 
 法を正す最後の時期において、私は必ずもっと精進して、三つのことをしっかり行い、法理の上で向上して、千百年以来形成された私心、闘争心、顕示心などの各種の執着心と、情を含めた各種の人間のものを修め、自分を純粋にし、時間を大切にして衆生を救い済度するように頑張ります。同時にいまだに病魔に迫害されている同修に、法を多く学んで、法理の上で向上してほしいです。病魔の関を乗り越え、迫害を解体し、更に多くの衆生を救い、済度してほしいです。
 
 以上、不適切なところがあれば、同修の慈悲なご指摘をお願いします。 
 
2011年06月28日

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