修煉の厳粛さを認識する
(明慧日本)私はよく、「まだ若いので、何とかなるさ」と考えてしまいます。年配の同修が重い病態の中で旧勢力から迫害を受け、この世を去って行くのを見るたび、私はいつも、心のなかで警鐘を鳴らすのですが、やはり緊張感を持つことはできませんでした。どうしても心のなかで、「私はまだ若いので、寿命も長いです。このようなことに、私は絶対になりません」というように考えてしまいます。それによって自分に怠惰な気持ちが生じて、自分を緩めてしまい、精進しなくなってしまいました。私は「もし自分の本来の寿命になって、命を無くしてしまったとしても、どうせ必ず、師父に付いて行くことができることでしょう」と考え、自分の怠惰心に理由をつけていました。
しかし、よく良く考えてみると、これはただ、自分がいいかげんであるというだけではなく、中共(中国共産党)の党文化によって生じた、変異した考えであることにも気づきました。しかもこれは、時間に対する強い執着でもあります。以前、よく年配の同修は自分の年齢に執着して、修煉の時間が足りないのではないかと考えていましたが、一方で若い修煉者も、自分はまだ寿命が長いので、この問題については年配の同修のように厳粛に対処する必要はないと考えがちです。しかし、そのために自分の精進を緩めてしまうのは、同様に時間に対する執着ではないでしょうか?
かつての大法小弟子は、この迫害の期間中、瞬く間に大人へと成長しました。しかしながら、彼らは往々にして大人に対する依頼心がまだあります。大人が全てを準備してくれるから、自分から特に何かをする必要がないと考えているのです。しかしながら、修煉には年齢の区別はありません。私たちは、もはや自分を子供として見なすべきではなく、自分に責任を負うことを自覚し、自分のすべての決定に対して責任を追わなければなりません。たとえ、それがどんなに小さな決定であったとしても。例えば、法を学ぶことですが、学法の時に心を鎮めることができず、もしくはしばらくして、他のことをやり始めたり、もしくは法を学ぶ中で眠くなって寝てしまったりなど、いずれも小さな決定の連続です。何度も師父に対して、今後は必ず同じ間違いはしません。と誓いを立てますが、また何度もその誓いを覆してしまいます。「約束は千金に価する」とは人間に対する要求です。まして修煉者はなおさらです。意思が固くなければ、自分自身を一瞬にして台なしにするだけでなく、私たちの毎回の自分に対する怠惰、自分を緩めることは、ひいては修煉、法を正すこと、衆生に対して損失をもたらしかねません。このことについて、今はどのような結果になるかはわかりませんが、しかしながら、私たちは決してこれを口実にして自分の行ったことに対して、自分が行ったいかなる結果に対して責任を負わないわけにはいきません。
常人ですら、その人のすべての決定が人生に対して影響を与え、結果にはその人が責任を負わなければなりません。しかし私たちは、少弟子であっても修煉者で、しかもすでに成長し、大人になりつつあります。私たちは師に手伝って法を正し、衆生を救うために来ました。私たちは決定を下す前に必ず、それがどのような影響がもたらすのか、どのような結果になるのかを考えなければなりません。自分で、この全てに対して責任を負わなければなりません。
2011年07月05日
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/6/15/126042.html)
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