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法を正す時期の修煉において、個人修煉を重視することはとても重要


文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、私が田舎に行って同修と交流した際、ある女性の同修が私たちに家の事情を話してくれました。彼女の話によると、ご主人(7.20前に修煉していた)が精神病を患ったため、修煉していない家族の人が病院で治療を受けるよう強く勧めましたが、彼女は夫を病院へ行かせたくないとのことです。この件について、私たちは皆で交流しました。ある同修は「私たちは法理を知りながら、なぜ彼を病院に行かせるのでしょうか?」と意見を出しました。一方で「病院に行かせなければ、常人はそれを理解できないので、最大限に常人の状態に符合すべき」という意見もあり、様々な意見が交わされました。
 
 その時、私が思ったことは「なぜ私たちがこのことに遭遇したのか?」というものでした。疑う余地なく、この出来事は私たちにとって向上の機会であり、私たちにとって、とても良いことです。表面上、どのような変化があったとしても、自分と関係があってもなくても、私たちは修煉者として常人と同じように問題を解決してはなりません。表面上の原因を見るのではなく、現象から本質を見通すべきです。私たちはまず自分を落ち着かせて、大法に照らしながら、最近の自分の修煉状態の中で不足している部分がないかを探し求めるべきです。
 
 以前、私は経済上の問題に直面したことがあります。そのとき私が思ったことは「師が法を正すことに私たちが協力するという重要な時期に、大法弟子としていかなる妨害要素をも否定することは当然のことであり、正念を発してそれを取り除くべきです。しかし、もし私自身にも心性上の重大な問題があるとしたら、単に正念を発するだけでは駄目でしょう。まず自分を正すべきです」というものでした。そして私は学法してから、心を落ち着けて座禅し、真心で師父に「弟子が執着を見つけ、それを正すことができるよう加持してください」と話しました。一時間が過ぎて、財を求める心、嫉妬心、虚栄心、安逸を求める心、闘争心、顕示心、重い色欲、恐怖心など、執着心が一つ、また一つと出てきました。私は過去の個別の出来事と照らし合わせることで、対応する執着心を見つけ出し、これらの執着心を徹底的に取り除くために正念を発しました。しばらく正念を発すると、私はいまだかつてない気楽さを感じました。
 
 翌日、友達が尋ねてきて、私の事情を知った後、以前の5倍もの収入が得られる高待遇の仕事を紹介してくれました。
 
 このことで私はこのように体得しました。一つの難関に直面したとき、それが自分自身の業力によるものだとしても、あるいは旧勢力による妨害であるにしても、私たちはまず、静かに自分自身の内に向けて探し求めるべきだということです。私たちはまず修煉者であるため、自分自身の執着を見つけ、それを排斥しようとしてこそ、慈悲なる師父がそれを取り除いてくれるのです。
 
 そして私たちは、それを良いこととだと思うべきです。師父は私たちに「修煉者は逆に問題を見ており、これらの魔難と苦痛を向上の良い機会と見なしており、すべて良いこととして」(『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法 』)と伝えられました。私たちは修煉者として常人の観念を変えるべきです。心地よくないこと、損をすることは良いことだと思うべきです。魔難が来たら、私は大法に照らして、師父からの加持を得て修煉を向上させます。もちろん、このことが法を正すことに対する妨害であれば、私は気楽にこれらの妨害要素と腐敗物を取り除き、そのことを通じて修煉状態を良くして心性を高め、業力を転化し、次元を上げることができます。同時に正念を発して邪悪を取り除くことで、威徳をも樹立することができます。これこそ修煉者が必要とすることではないでしょうか? もう一つの角度から言うと、私たちがある出来事によって修煉を向上させ、心性の境地を高め、次元の要求基準も高めることができれば、考えてみてください。その魔難あるいはなんらかの試練がまだ存在する意味はあるのでしょうか? つまり、誰が段取りしたかを気にする必要はなく、なぜなら誰が段取りしたとしても、すべて師父の掌の上から飛び出すことはできないからです。師父がそれを認めない限り、その出来事は起こるはずがありません。私たちがひたすら修煉し、正法時期の大法弟子に要求される高い基準に達することができれば、それでいいのです。
 
 旧勢力も私たちの修煉の隙を狙って邪魔をします。その時に私たちが、内に向けて探さない場合によく口にするのが「これは妨害です。私は旧勢力の按排を認めません。発正念をします」ということです。しかし、自分自身さえも正しくないとすれば、どうやって旧勢力を取り除くのでしょうか。旧勢力は、大法弟子の個人修煉をもっとも重要なこととみなし、これを口実にして大法弟子を試そうとしています。私たちが正しく歩むことができなければ、旧勢力に邪魔する口実を与え、師父が法を正すことに迷惑をかけてしまいます。これは個人修煉を疎かにしてしまったためにもたらされたことです。法を正すことと衆生を救い済度することは、私たちの喫緊(差し迫っていて、非常に重要なこと)の課題でありますが、私たちはまず修煉者でなければなりません。本当に法の要求に従い行動することこそ、真に法を実証することであり、真に衆生を済度する作用を発揮する事ができ、「法を正す時期の大法弟子」という称号に相応しいのです。
 
 私はこのように悟りました。あることが成功した理由は、私たちが上手く行うことができたからというわけではなく、ほとんどの場合、私たちが心を込めて頑張っており、心性が法のある次元の要求に到達したのを師父がご覧になって、私たちを加持してくれたからです。私たちはその過程で自分を修めなければなりません。執着心は修めない限り無くなることはなく、トラブルや魔難が現れるたびに妨害だと見なし、自分を修めなければ、これでいいのでしょうか。法を正すのは師父一人だけで、私たちは修煉しながら、師父が法を正すことに協力しているということを忘れてはなりません。7.20以前は、皆が個人修煉を重視していましたが7.20以降、一部の大法弟子は衆生を済度することと法を実証することに全力を傾けたため、個人修煉における向上を疎かにしてしまい、自分の執着に気づくことができず、邪悪に修煉の隙をつかれて全体に隔たりを作ってしまい、難関を更に乗り越え難くさせてしまいました。結果として、法を正すことと衆生を救い済度することにも損失をもたらしてしまいました。
 
 私たち修煉者が突然の出来事に遭遇する時や、ある現象を見て、またはトラブルが生じた時に、人として、社会の一員としてどのように対処すればいいのかという思考に留まることなく、根本的に内に向けて探し、執着を取除くことこそ、本当に局面を打開することになります。内に向けて探す過程は修煉ではないでしょうか? 私たちがやるべきことは人心を抑制し、時間と精力を使って自分自身の内に向けて探すことだけで、本当に執着を取除いてくださるのは師父です。「修は己にありて、功は師父にあり」(『転法輪』)、もしある出来事に遭遇した際に、内に向けて探さなければ、修煉者としての一面はどこで表されるのでしょうか? それは常人の行いに他なりません。
 
 「其の身正しければ令せずして行わる」(孔子『論語』)、私たちはすべてのことにおいて、着実に自らを修め、常に自分の思想や言動に気をつけ、慈悲を持ち、寛容な心で人と接し、個人の利益が損なわれたり、苦しめられたりすることに頓着(物事を気にかけて、こだわること)せず、すべて大法を第一にします。汚れた世の中で常人と異なる修煉者になり、人々が大法弟子の素晴らしさを見て感心すれば、人々は自ずと「法輪大法はすばらしい」と口にするに違いありません。
 
 見解が浅いため、指摘をよろしくお願いします。 
 
2011年07月17日

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