日本明慧
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法を暗唱することについて 文/山東省の大法弟子・道源
現在、大法弟子はみな「三つのこと」をやっていますが、「三つのこと」をやるときは、ただ形式的にやるのではなく、人心で取り扱うべきではなく、大法の基準に立って、大法の基準に従い、修煉者の心理状態で「三つのこと」をやるべきです。「三つのこと」をやっていくうちに、心性を着実に修め、自分を清めていくのです。
大法弟子は法を師とみなし、法をよく学ぶことが重要です。たくさんの同修たちがみな法を暗唱しています。私は『転法輪』を暗唱し続けて十年余り経ちました。現在私は、本を閉じて暗唱することができます。集団で学法をするとき、同修は一段落を読み、私は続けて次の段落を暗唱します。時に私は一講を暗唱し、同修に字の誤りがあるかどうかチェックしてもらいました。よく暗唱できましたが、一文字も間違わないまでには、まだ至っていません。私はまだ法を暗唱し続けています。これは私個人の学法方式です。 大法は私たちの修煉を指導しますので、師父が言われた言葉を覚えれば、普段、随時に自分の修煉を指導できると私は思います。法を暗唱することは決して難しくありませんが、重要なことは根気よく続けることです。何回も何十回も暗唱し、法を暗唱できると思っても、原本と一字も間違わなければ、真に法を暗唱できるとは言えません。初めは暗唱のスピードが遅いかもしれませんが、私はまず一講を通読してから、一段落一段落を暗唱していきます。何回も暗唱してから、一つの段落を別の段落と合わせて暗唱していきます。こうすれば、しっかりと暗唱することができます。しかし、よく法を暗唱できたとしても、何カ月も暗唱しなければ忘れてしまいます。ただ、再び暗唱する時、初めより早くなるだけです。 法を暗唱するのは「其の心志を苦しめる」ことになりますが、暗唱できたら苦労した分だけ、その楽しみがあるので、暗唱すればするほど好きになります。暗唱すればするほど法理を多く悟ることができます。法を暗唱することは、私にとって最も楽しいことです。状態がよければ、身体全体が心地よく、美妙で、全身の細胞がみな法の中に溶け込んだように感じます。もちろん何も求めず自然に得るのです。 ある同修は自分の執着を見つけることができませんでした。千百年以来、私たちは常人の中でたくさんの観念、習慣、思惟方式など形成していますので、自分が常人よりも、ちょっとよくやったと感じたとしても、大法の基準で判断すればみな常人の執着です。それは修煉者が捨てなければならないものです。大法こそが自分の一思一念を正すことができ、妨害と思想業力をはっきり見分け、根本的な執着を見つけ出すことができます。あるお婆さんは以前、自分の執着心を見つけることができませんでしたが、法を暗唱することを通じて法に対する理解が深まるにつれ、執着を見つけることができました。法に照らしながら自分にはこの心があり、あの心があるといえるようになりました。しかも法理に対する認識を話すこともできるようになりました。 私は卑屈で、内向的な、ひねくれた性格で、すこし神経質な人間でした。幼い頃に、私をいじめたり、馬鹿にしたり、または傷つけたりする人たちを思い出すと、すぐ恨んでしまいましたが、修煉と法を暗唱することを通じて私の性格は明るく、楽観的に変わりました。常人の中にある恩讐も消えてしまいました。現在私は、師父に感謝し、私を助けてくれたことがある同修たちと、私を傷つけたことがある人への感謝しかありません。私に意地悪する人は借金の取り立てにきたのであって、私はその借りを返さなければなりません。自分に業力がなければ、これらのことも起こらないでしょう。師父が「私は衆生が歴史上犯した全ての過ちにこだわらず」(『各地での説法三・大ニューヨーク地区法会での説法』)と説かれました。私たち大法弟子は絶対に、寛容の心と慈悲心を持つべきです。 法を暗唱することは学法の一つの形式に過ぎませんので、法を暗唱する回数は心性の高さを表しません。法を暗唱することは、いっそうよく法を理解し、法に同化するためです。それによって異なった次元の法理を悟ることができ、着実に修煉することを指導してくれます。 次元が限りがありますので、浅い認識を少し話しました。不適当なところがあれば、正しく指摘してください。合掌。
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