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「内に向けて探す」ことについての体得(一)

文/中国河南省の大法弟子
 
 私はこの文章を書き始めた時、察知しにくいもう一つの執着心「浮躁心(ふそうしん)」を見つけることができました。この浮躁心 の現れとして、入静できない、焦燥して不安となり、気分が悪くいらいらして、自分は不本意ながらも、火にあぶられているようでした。もう少し詳しくこの執着心を探ってみると、一山の砂丘のようで、荒れ果てている乱雑で、慈悲や清涼に乏しく欠けているようにも感じました。「いろいろな超能力を使って太陽を見ると、見れば見るほど熱くなくなり、さらに見ると黒く、さらに見て行くと清涼な世界なのです。この物質空間における現れ方はこのようですが別の物質空間の現れ方は別の有様です 」」」」」9)」」」」」」」」」」」」」」」」」」。。」」」」」」」あしいろいろな超能力を使って太陽を見ると、見れば見るほど熱くなくなり、さらに見ると黒く、さらに見て行くと清涼な世界なのです。この物質空間における現れ方はこのようですが別の物質空間の現れ方は別の有様です」」(『転法輪』(巻二)「人類の堕落と覚者の出現」) そこで私は思ったのですが、私は次元を昇華して、清涼で生気が満ちている内心の世界を修めなければならないと思いました。
 
 師父は法を伝え出されてから現在に至るまで、いつも内に向けて探すよう、内に向けて探すようにと私たちに教えてくださっています。それでは、このことについての私の体得を同修と交流したいと思います。
 
 私は以前、数回にわたり邪悪の迫害を受けたことがあり、母は私が大法の話をするのを恐れていました。一言でも口にすると、母は怒り出し、最初に口にする言葉は、「あなたがいつか天地をひっくり返すことを期待しているよ」です。もちろん、このような時はお互いに気まずく済ませるのです。後になって私は、母がなぜいつもこの言葉を言うのか、考えてみました。私のどこかに問題があるのか? 私は師父の説法を思い出しました。「本人がその時悟らなくても後になって悟るようになるかもしれません。後になって悟らなくても、他の人の口を利用して注意します。それでも悟らなかったら、何かにぶつかるようにさせます。(笑い) 冗談です。実は修煉というのは人の執着心を取り除くことです 」(『ニュージーランドでの説法』) そこで私は分かりました。この前の迫害は、同修が口を修めなかったために、私の名前を言い出したのです。私は心の中でこの同修に対して怨んでいて、同修との付き合い拒んでいたため、自分の神に向かう修煉の道に障碍をもたらしてしまいました。このことを悟った私が同修との関係を修復した後、母の態度が変わり、大法のお守りも受け取ってくれました。
 
 私が迫害で苦しめられたことが、妻の心にずっと影を落としていました。ある日妻は、私が数人の同修と交流したことを知り、かんかんに怒り、一晩中暴れ出し、離婚すると言い放ったのです。彼女の罵声を浴びせられたとき、私は何も言わず、静かに彼女の泣きながらの訴えを聞いていました。同時に、自分の内に向けて探していました。私は自分の利己心を見つけ、彼女に対する配慮が足りず、自分の境地を追い求めているがために、彼女に対する慈悲が足りず、彼女の要求にいつも適当に応じ、彼女が満足するように交流する言葉が足りませんでした。さらに、自分は修煉の最後になると、彼女と離れ離れになると思い、特に未練がなく、特に過激に情を断ち切る必要がないと思い、そのため、人間としての責任を見落としていました。翌朝、彼女は憤慨して「私は出て行きます」と言いました。このとき私は穏やかな口調で、「大法は私の心の中で一番目を占めており、いかなるものも代替することができません」と返しました。彼女はさらに怒りを込めて、「本に何が書いてあるの? そこまであなたを惹きつけるなんて。今日は仕事を休んででも、この本を読んでみる」と言いました。結果として、『転法輪』を読み終えた妻は、修煉を始めました。彼女は今とても精進していて、三つのことを私よりもまじめに行っているのです!
 
(続く)
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/8/14/245363.html)
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