日本明慧
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ある夫婦の修煉物語
文/中国遼寧省の大法弟子
私たち夫婦は1998年1月、一緒に法輪大法の修煉を始めました。当時、時間を切り詰めて懸命に学法し、煉功していました。普段は毎日、家で『転法輪』を2講学法し、夜は学法グループでもう1講学法していました。当時の様子を振り返ってみると、時間がどんなに貴重であったかを感じます。毎日学法し、煉功し、そして法を伝えるなど、使っても使い切れないほど、全身に力がみなぎっていました。
妻は修煉する前は、とてもやせて病弱で、歩く時は風が吹いても倒れそうでした。半年の修煉を通じて妻は元気になり、病気もどこかへ飛んでいってしまいました。
1999年3月、私たちは住宅を改築するため、他の離れた地域に引っ越しました。したがって、その年の「7.20」、中共(中国共産党)が法輪功に対し、迫害を開始した時に、地元の派出所、役所はすでに我々の行方を捜すことができず、家の法輪功の関連書籍や資料などは無事で、なんら損失はありませんでした。当時、私は病院で長期にわたり父の看護をしており、妻は家で母の世話をしていました。私は父を看護する以外、全ての時間を学法に当てました。
父の病室にはテレビがありました。当時、テレビの番組は法輪大法を誹謗中傷する内容ばかりで、それが放送される時には、私はいつも1、2時間、廊下に出て、テレビを見ませんでした。私は師を信じ、法を信じ、法に対する固い信念は少しも動揺することはありませんでした。
その後、私は2冊の小冊子を得ました。内容ははっきり覚えていませんが、表にただ何行かが書かれていました。「もし、あなたが法輪功修煉者あるいは普通の良い人ならば、ぜひこの拾った小冊子を法輪功修煉者に渡してください」という内容でした。私はそれを見て、涙がぼろぼろと流れ落ちました。私はその小冊子を読み終わった後、グループの輔導員に渡し、それからまた次から次へと渡していきました。それによって皆が鼓舞され、大法に対する信念が一層強固になりました。当時7、8人が一緒に市内のある山の上で煉功していたのを憶えています。
2000年、私は真相資料を手に入れました。私は毎日外に出て配り、大晦日にも途切れることはありませんでした。当時の心は、ただ世の人々に法輪功の真相を知ってもらいたいだけで、早く師父の無実を晴らし、大法は濡れ衣を着せられているのだと言いたかったのです。もちろん、法輪大法は倒されることはなく、法輪功はまだ存在しています、と言いたかったのです。
2004年、資料を作る修煉者が迫害されて、パソコンやプリンタなどを我が家で預かりました。妻は同修に教わって、早くもダウンロードとプリントアウトができるようになりました。あの時から現在まで、私の所で平穏に資料を作っています。この数年間、技術関係の同修が何人も連行され、迫害されましたが、誰も私の資料拠点のことを漏らす人はいませんでした。正念が強く、師父のご加持の下で、私は恐怖もなく、ずっと資料拠点を固守しています。
師父の『早く伝えよう』が発表されてから、私はすぐにインターネットを利用して住所を調べ、各地の小中学校へ真相資料を送りました。普段の昼間と夜、各団地に真相資料を配ります。出勤の途中でも、いつも持っている小冊子、シールなどを配ったり貼ったりします。時には夜中に出て、旗を掛け、妻は家で発正念します。出張の時も小冊子を忘れず、どこに行っても配ります。一度も恐怖感を覚えたり、邪悪な妨害に出会ったりしたことはありません。ここ数年来、本当に平穏で、無事にやってきました。
最近、仕事が少し忙しくなり、余暇の時間が少なくなりました。しかし、毎日学法し、時には残業してとても遅く帰宅しても、家で1時間くらい学法をしています。夢の中でも学法していたほど、大法は私の心に深く根づいています。いろいろと迷っている中でも、私たちは大法に対して正しい認識を持っているだけでなく、さらに、修煉の道を確固として歩みます。
今後、私たちは引き続きよく学法し、師にしっかり従い、師父の要求通りにしっかり行い、大法弟子の重大な使命を果たし、師について真の家に帰ります。
適切でないところは同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
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