日本明慧
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人を救うことを待ってはならない(二)

 私は次のことを反省しました。一つ目は、自分がまず現実を無視して楽観し、一人一人皆それぞれ異なるルートで真相に触れられるので、特に身の回りの人には焦らなくてもいいと思っていました。二つ目は、自分は衆生を救い済度しながら、法を正すのが終わるのを待っていました。三つ目は、依頼心が強く、自分はやらなくても、他の同修がやるからと思い、さらに潜在意識の中で、法を正す形勢がめざましい勢いで前進することを望み、ときには師父の帰りを待ち、神韻が中国本土で上演すれば、そのときに皆真相が分かるだろうと考えました。四つ目は、亡くなった大法弟子は衆生を救い済度していなくても、円満成就できたのではないかと思いました。五つ目は、困難を知りながら進んでやらず、表面から見て救い済度されるのが難しい人を意識的に、あるいは無意識的に避け、特に頑固な人に会うとがっかりした、などがありました。
 
 実際、大法弟子が皆このように思うと、法を正すことへの妨害になります。皆が他の同修の動きを当てにすれば、法を正す形勢はどのように早く前に進めるでしょうか。これは大法弟子の状態ではありません。待てど暮らせど、本当に法が人間界を正すとき、私たちの衆生も残り少なくなっているでしょう。また、このような無責任な行為は、旧勢力に衆生を破壊される口実になります。実際、私たちは誰が自分の衆生であるかはっきり分かりませんが、私たちは救い済度できるなら、できる限りやらなければなりません。すべての衆生は師父の身内ですから。衆生は1日早く真相を知っていれば、1日早く救い済度され、安全の保障も1日早く得られ、またその人からまわりの人に1日早く真相を伝えられます。一人ひとりの大法弟子の使命は同じではなく、負っている責任も異なりますが、私たちがまだここを離れていない理由のすべては、衆生を救い済度することです。実際、難しいかどうかはまさに師父がおっしゃったように「難しいかどうかは実は人によると思います。ごく普通の常人で、修煉したくない人にとっては、修煉はとてつもなく難しく、不思議なもので、成就などできないと思うでしょう。常人で、修煉したくない人なら、非常に難しいと思うのです」(『転法輪』)師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度する志があれば、どんな困難があっても克服すべきであり、また克服できます。私たちには慈悲かつ偉大な師父がいらっしゃいますから、衆生を救うことにおいて、盲目的で楽観的、悲観的、緩めてしまい、正念と神念を持たなければ多くの衆生を失います。
 
 これらの問題が存在するのは、無条件で考え、無条件で師父と法を正すことに要求されたことを円融しませんでしなかったからです。世人の道徳水準は一日千里で下落しているのえ、ある程度まで至ったら救い済度できなくなります。縁がある人は師父の按排によって、私たちのところに来られます。このような機縁は貴重なので、真相を伝えないと、永遠に機会を失うかもしれません。
 
 今、私は元の独修の状態から抜け出し、昔の同修3人を見つけ、彼らと一緒に精進し、衆生を救い済度しています。職場の同僚、仕事の中で会った縁がある人に、理知的に真相を伝えるようになりました。旅行のとき、列車やタクシ-の中で真相を伝え、間に合わない場合、携帯電話の番号を教えてもらい、その後、真相を話し、多くの生命が救い済度できるようにしました。
 
 私たちは一緒にしっかり学法し、正念を発し、あらゆる機会を利用して衆生を救い済度しましょう。私たちと同じく、大法に固い信念を持ってこの世に来た生命を失望させないように、さらなる多くの生命を救い済度しましょう。
 
(完)
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/8/16/245426.html)
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