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慈悲に対する私の悟り(二)

 いままで慈悲の境地を悟れなかったのは、悲しみ、憤る心、人心、感情で衆生を見ていたからです。品格のある人を見かければ、好む心が生じ、話しかけたくなり、話した後の満足感がありました。品格のない、悪劣で徳を損なっている人を見かければ、嫌な心が生じ、遠く離れたくなります。なぜなら、このような人は救い難いからです。救えなければ挫折感を覚えるため、最初から相手に機会を与えていませんでした。甚だしきに至っては、彼らを排斥して衆生を救う扉を閉ざしていました。

 自分の善悪の観念だけで人を見分けていた私は、多くの煩悩や邪念から抜け出すことができませんでした。このことは同修に対しても同じことでした。よく悟った同修に対しては話しかけたくなり、その同修が何か間違った行いをしても、寛容な心で許すことができ、根気強く交流していました。そうではない同修、または人心の多い同修、さらに執着が多く精進していない同修に対しては反感を持っていました。そのような同修に対しては少しでも間違いがあれば、厳しく攻撃し、棒喝したくなり、常人の義憤に心が生じ、鉄が鋼になれないことを嘆いていました。そのため、全体の協調においてトラブルが絶えませんでした。

 人を区別する心は、相手が善であれば善で接し、相手が悪であれば悪で接することを寛容してきました。善悪を見分けることは自分の生命の特性であるということを口実にして、自分の執着心を深く掘り出そうとせず、他人を変えようとし、自分を変えようとしませんでした。そのため善悪の中で真の慈悲が感じ取れず、これは旧宇宙の生命の「私」(し)の属性です。「私」から出て踏み出さなければ自我を放下することはできません。喜怒哀楽に縛り付けられ、環境に思うがままに動かされ、小さなことでも心が動じ、大法弟子の基準を忘れて常人の心で対処していました。心を落ち着かせることができず、修煉状態が良い時もあれば、悪いときもあり、雷が落ちても動じない状態に達していません。私は真に恩讐や情から解脱することができませんでした。そのような私に歴史的使命を果たせるわけがありません。

 ここまで書いたとき、師父の新経文『大法弟子とは何か』が発表されました。師父は、「大法弟子なので、間違いなく苦労しています。なぜなら、歴史の責任は皆さんにこれほど大きな重責を与え、歴史の使命によって皆さんは肝心なとき、必ずこの歴史の責任を背負うことになるからです」と、おっしゃいました。師父は大法弟子が達する基準をはっきりと解かれました。このように私たちに重責を与えてくださり、私たちの修煉が基準に達するべき時期にきています。今の自分の修煉状態に照らし合わせてみますと、「責任」と言う二文字が重く感じ、それは数えきれないほどの生命が救われるかどうかにかかっています。

 そして、世間での行動が悪い衆生ほど、私たちの彼らを救う責任がますます重くなります。なぜならば、悪ければ悪いほど淘汰される縁に立たされ、ますます危険な境地に置かれ、環境に与える腐蝕性が大きく、それだけに救われる機会が少なくなっています。これらの生命が救われるかどうか、彼らの生命の根源から最大の智恵を引き出し、その智恵の役割を最大限に果たせるかどうかによります。正法とは不正な要素を正して正に帰することであり、難しいと分かっていても突き進む精神があれば、徹底的に自分を正に帰することができ、初めて先天の位置に戻ることができます。新旧宇宙の更新の最も大切な時期に、大法弟子は必ずこの責任を担わなければなりません。

 私たちは衆生を救っています。衆生は私たちの世界を充実させ、私たちの世界の財産ともなります。その財産を旧勢力に奪われてはならず、新宇宙の輝くエネルギーを減少させてはいけません。衆生は宇宙を構成する一部分ですから、私達が自分の身体を愛するのと同じように、すべての生命を大切にしてこそ、旧宇宙の生命を懐・滅の規律の中から、円満に円融して不滅の法の中に、即ち新宇宙に渡らせることができるのです。師父が要求されることに無条件に円融してこそ、初めて合格した大法弟子になれるのです。

(完)

 

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/9/15/246757.html)
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