文/河北省の大法弟子
(明慧日本)師父は『大法弟子とは何か』の中で、「旧勢力が押し付けた魔難の中で正しく歩むことはなおさら難しいことになり、特に中国大陸の大法弟子は魔難と迫害の中でその一念が非常に大事になります。しっかり行なったかどうか、迫害されたかどうか、正しく行なったかどうか、どこまで迫害されたのかはいずれもあなた自身が歩んだ道、頭の中で考えたことと直接関係あります」と、説かれています。
師父の新しい講法を勉強して、いくつかの体得があります。つまり大法弟子である我々が、修煉と衆生を救い済度する中で遭遇した魔難や迫害は、すべて自分の考えや観念、正しく行なったかどうか、しっかり行なったかどうかと直接な関係があると思います。
一、病業の魔難
病業に遭う大法弟子は大体下記のようなパターンが見られます。一つは、学法と煉功を重視しておらず、正念もあまり発しておらず、真相を伝えることも少ししかやっていない、つまり、あまり精進していない状態が続いているため、結果として病業の魔難を導いてしまうケースです。もう一つは、心性の修煉を重視しておらず、普段、三つの事を行っていて、とても積極的に見えるのですが、トラブルに遭うと怒ってしまい、或いは心理的に関を乗り越えず、考えても考えても原因がわからない、原因を見通すことができない、内に向けて探さないケースです。法を毎日勉強してはいるのですが、しかし、法に照らして自分の心性を修めていないのです。学法と実際の修煉との間に隔たりがあるのです。
また、長期的に病業の魔難の中に置かれている同修は、旧勢力が押し付けた眠気、疲れ、体の苦しみ、苦痛に対する全てを自分だと思っていて、否定、排除していません。眠気、疲れを感じたらそれに従って、少し寝たいと思い、休憩したらよくなると思っています。観念上の執着を形成してしまい、長期的にそれを突破できず、旧勢力が押し付けた魔難の中で修煉し、とても苦しく疲れていると感じていて、抜け出すことができません。
私も、この面での経験があります。数年前、私は朝早く起きて煉功をし、正念を発した後、とても眠くて疲れていると感じました(実際は旧勢力の妨害の一種です)。当時この現象を否定せず、それに従って仮眠し、結局、長期にわたってこの魔難の中にいました。その後、この状態は正しくないと認識し、煉功と発正念の後はやるべき事を行い、眠いとか疲れているとかを考えませんでした。すると、すみやかにこの状態を突破することができました。
一部の高齢の同修は、思想または言行の中で、「自分は、年を取ったから何々」などと言ってそれを認め、常人の観念を改めないため、修煉しているにも関わらず老化したり、病魔に妨害される状態を招いてしまいます。法の中で師父が要求された状態に達していません。
「細胞の分子は本来の構造と配列順序を保っているままで、構造も変わっていないため、常人には外観からその変化が分かりませんが、中のエネルギーはすっかり変わっているので、この人はこれから自然老衰はせず、細胞も衰えることなく、いつまでも若さを保つことができます。修煉を続けているうちに、人は若く見えるようになり、最後はあるところにとどまり続けるのです」 「本体を変える過程において、人間の細胞が次第に高エネルギーの物質によって取り替えられ、その際に老衰が緩和されることになります。身体が若者の方向に少しずつ逆戻りし、少しずつ転化され、最後には、その身体が高エネルギーの物質によって完全に取り替えられた時、この人の身体は完全に別の物質の身体に転化されます」 (『転法輪』)
また一部の同修は金銭や情に執着し、家庭や親戚の間で問題を起こしていて、体への迫害を招いています。また名利に執着する人もいて、常人の中での名声や地位に執着し、結局、修煉上では前へ進めなくなり、下へ滑落している状態で、とても危険です。
私たちは、自分の一念ごとに正しいかどうかを注意深く見るべきで、自分が何のためにこの世に来たのかを見直す必要があります。真に更に高い、更に大きい基点から問題や自分の執着していることを見てみると、それは、あまりにも小さ過ぎて、何でもないと感じ、一歩で乗り越えることができます。
二、色欲の心は、迫害を招く
色欲の問題において間違いを犯したため、迫害を招いた例が多くあります。労働教養を宣告された人もいて、いまだに大法の修煉に戻っていない人もいます。甚だしきに至っては邪に悟り、邪悪の手先になってしまった人もいて、とても心が痛みます。
私も、この面においての経験があります。今年の上半期、仕事が忙しかったため、法を勉強する時間がなく、修煉を緩めてしまいました。その頃、回りの常人がよく離婚したり、合コンなどの話を耳にしたりして、私も不正な常人の考えを起こしてしまいました。これらの念を、その都度否定して取り除かなかったため、色魔を招いてしまいました。最後には、自分が考えなくても、これらのよくない念が自ら沸いてきて、大法の本を読んでいるときでさえも出てきました。「これは私ではない」と分かっていても、それらに妨害されていました。明慧ネットで色欲の心を修める交流文章を読んだ私は、正念を発してそれらを解体し、取り除いて乗り越えました。以前より清浄になったと感じています。
この経験は、私の不正な一念で招いたものです。普段から自分に厳しく要求しておらず、一念一念を厳しく修めていなかったからです。師父は『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』の中で、「あなたの思想境地が何かのものと一致すれば、そのものはあなたを支配してしまいます。つまり、異なる次元の生命はあなたにほしいもの、執着するものがあるとき、ちょうど自分と一致していると気づけば、すぐに作用してしまい、場合によってあなたを司ってしまいます。人間が理性を失い、うっぷんを発散しているとき、マイナスな要素が働きます。どんなものも生命であり、それは悪だったり、欲望だったり、恨みだったり、異なるものであるため、おのずと作用するようになります」と、説かれています。
それゆえに、われわれは主意識をつよく修め、「それらは自分ではない」とはっきり見分け、常に正念を維持しましょう。
三、一念ごとに自分を正さなかったため、迫害を招いた
師父の『秋風涼』を読んだ後、「洗脳」の風が全国を巻き込む予感がしました。その後間もなく、私が住んでいる地域でも「洗脳班」をやり始めました。同修たちが絶えず「洗脳班」に連行されたという情報を耳にしたとき、一念が生じました。「連行されるなんて・・・私は窓から逃げても連行されない」この念は常人から見ると「英雄」のように感じるかもしれませんが、しかし、大法の基準で測ると、法に符合していません。
この不正な念が生じるということは、つまり、自分がこのような結果を求めていることと同じです。念がそこにあるので、自分が正しいと思って、それを否定しなければ、ほかの空間に確実に存在し、旧勢力がそれを利用して隙に乗じるのです。現実に、ある時会社の人と警官が家に来て、私を洗脳班に連行して迫害しようとしました。家族が彼らに対応している間に、私は奥の部屋へ行って鍵をかけ、シーツなどを繋いで窓に結び、3階の窓から脱出しました。
今日になっても迫害されるということは、自分の念が正しいかどうかを徹底的に見なければなりません。不正であれば必ず否定し、取り除くと同時に、更に正しく行なうよう自らに厳しく要求すべきです。真に修煉者らしく、恨みもなく、執着もなく、正々堂々と修煉して、徹底的に旧勢力の迫害を否定し、三つの事をよく行い、更に多くの衆生を救い済度しましょう。