2012年に関する問題
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 (明慧日本)最近同修は、師父が2002月の『北米での巡回説法』中でおっしゃった正法がまだ十年の時間がかかる問題についてしていました。思わずこの問題に対する私の理解の過程も思い出しました。私もかつてこの問題を考え、これはずっと私が執着しているところでした。先に師父のこの部分の説法を振り返って見ましょう。「時間が長くなることを恐れないでください。皆さんに教えますが、キリスト教は迫害されて三百年後にやっと普及しました。重大な使命を持っている大法弟子は一人の普通の修煉者にも及ばないのでしょうか? 大事なのは私たちがどのように物事を認識するかのことです。皆さんにお聞きしますが、もし衆生を救い済度することがまだ十年かかるのであれば、皆さんはやりますか? (学習者の皆さんが口をそろえて、「やります」と答えた)(拍手)。これこそ大法弟子です。(拍手) もちろんまだ十年があるということはあり得ませんが、そこまで長引くことも許されません。それらの寿命もそれほど長くありません。」『北米での巡回説法』

 毎回この段落の読むとき2012年は重要な年だと感じました。2011年の神韻公演でもまた天の扉が開くシーンでカーテンコールをしたし、またマヤ文明の予言もあるし、これらのことを心からずっと放下できませんでした。実際はこれは一種の希望と外部の環境、天象の変化に依頼する執着です。このような心は弱まっているものの現在もまだあり、根本的に取り除いてませんでした。

 2005『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』の中マスメディアで予言を取り上げる問題についての弟子の質問に対し、師父は以下のように回答されました。「マスメディアの名誉に影響することはありません。マスメディアはほかでもなくマスメディアであり、真理を言っているわけではありません。かえって、大法弟子はこれらのことに強く執着しないでください。いつも予言に何かが言われていますが、実際どうしてそのようにならなかったのかと執着している人がいます。預言を法と見なしてしまいました。忘れていけないのは、法を正すことが始まってから、法を正す過程そのものも含めて、全ては未来にとって必要かどうかによって決められています。予言は衆生を救い済度するときに便利な方法として使われるしかありません。師が言ったあの言葉はああいうことを意味していますが、時が来たらなぜそのようにならなかったのかと言っている人もいます。実は皆あなたの推測です。時間に対する執着は執着ではありませんか? いかなる漏れもなくなるまで修煉することができれば、これこそもっとも良く修煉したことになります」

 この段落から自分の執着分かりました。私たちの個人修煉は基礎であり、衆生を救うことが師を手伝って法を正す真の目的です。私たちは衆生救われること、宇宙の未来を考慮しなければなりません。全てが衆生の救われることと法を正すことのためで、この過程で私たちは修煉し成就するのです。私たちの修煉成就、衆生救われること、法が正されること、宇宙の更新、この方面は互いに制約し合い、特に私たちの修煉を基礎としています。

 大法修煉は大道無形で、執着が一つも漏れることなく無くなるまで修めるべきです。いかなる執着心も形があり、漏れになります。バケツ原理(Cannikin law)という理論を思い出しましたが、木で作ったバケツ中の水位は壁の一番長い板によって決められるのではなく、一番短い板の長さによって決められます。私たちが修煉の中で絶えず自分を向上させ、いかなる漏れも旧勢力に乗じられる隙になり、衆生を救うこと妨害されます。この方面で数多くの教訓があります。最後の最後の段階で私たちはこの外の天象変化に依頼する心を取り除くべきです。私たちは未来の各層の主ですが、外の環境によって自分の衆生を管理するのでしょうか。

 予言でも正法過程の表現でも、目的は正法のため使われています。予言が当たっても、外れても、大法弟子の心が動かされてなりません。大法弟子の目的は師を手伝って法を正し、自らの誓約を果たすことです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/12/2/250057.html)     更新日:2011年12月5日
 
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