プロジェクトはただの形式で 向上こそ肝心
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文/海外の大法弟子 

 (明慧日本)メディアなど大法弟子が創設したプロジェクトは、みな迫害に反対して大法を広める目的に基づいて、ここ10数年来、ずっとそのような役割を果たしてきました。真相を伝える中で大きな貢献をして、国内外において知名度も高く、邪悪を大いに震え上がらせています。 

 そのため、プロジェクトと大法の間の関係が分からなくなった弟子がいます。邪悪を震え上がらせる役割を果たしたのは、プロジェクト自身がどれほどすごいかでなく、大法弟子がプロジェクトを遂行させる中で自分を修め、法を実証し、大法の神通力をプロジェクトを通して現したためです。 

 師父は『新唐人テレビ討論会での説法』で「もちろん、テレビ局自体は大法の修煉ではなく、直接大法と関係しておらず、大法弟子が法を実証し衆生を救い済度するために設立されたのです。つまりこういう関係です。テレビ局は大法そのものではありませんが、大法弟子が衆生を救い済度する道具なのです」と説かれました。

 師父は私たちに大道無形の修煉方法を教えてくださいました。プロジェクトがあるかどうかに関わらず、自分を修めて向上するのは永遠に最優先にすべきことです。プロジェクトがなくても大法弟子は同様に修煉できます。例えば中国本土にプロジェクトはありませんが、大法弟子は千差万別の方法で真相を伝え、至る所で活動して大法を実証しています。

 海外では、「プロジェクトに入ってはじめて精進していると言える」という考えを持つ弟子がいます。『更なる精進を』の経文が発表された後、修煉するならばプロジェクトがなくてはならない、プロジェクトに入ってはじめて円満成就できると理解してしまい、自身の能力が適切かどうかも見ずにプロジェクトの中に無理やり入ろうとする弟子がいます。これは師父の法を間違って理解しており、ないし師父の法を歪曲しているとも言えると思います。

 『転法輪』第1講で「心性の高さは功の高さ、これは絶対の真理です」と説かれています。これは宇宙の法で、心性こそ永遠たる評価基準であり、大法弟子がプロジェクトをやるか否か、どんなプロジェクトをやるかに従って変わるものではありません。「プロジェクトをやるかどうか」を大法弟子の修煉状態を評価する基準にしてはならず、円満成就の保証にしてはなりません。そのような行為と考え方の背後に隠れているのは有為の心で、私心にほかなりません。

 プロジェクトのような目に見える形式は、私達に修煉させるものに過ぎず、もしプロジェクト自体に執着して、ないし事業を経営する常人のようになると、常人社会の「廟を建てて神を拝む」とどこが違うのでしょうか? たとえすべてのプロジェクトが世界一流のレベルになったとしても、大法弟子の心性が高まっていないかぎり成仏できません。当然、大法弟子の心性が高まっていないと、一流の業績を成し遂げることもあり得ないのです。

 大法弟子のプロジェクトはもともと互いに補充して互いに協力すべきですが、プロジェクトを行う弟子は執着を取り除いていないため、それぞれ自分のプロジェクトに固執して、プロジェクト内部やプロジェクトの間で利益をめぐる争いが現れました。自分の事に固執して自分のプロジェクトの重要性を強調し、顕示心、歓喜心、名利心を起こして、互いに妨害して互いに見下す現象も起こりました。嫉妬心が強い場合、他のプロジェクトを破壊する情況まで現れました。

 大法弟子はプロジェクトと修煉の間の関係を正しく理解しなければなりません。世界中のメディアと会社は非常に多くて多種多様で、私達はその中の一部を採用して修煉しているだけです。師父は『ロサンゼルス市法会での説法』で「ここで行なっているのは修煉であり、生命が本質から高級生命に転化する過程なのです。つまり、在席の皆さんは皆、神の道を歩んでいる生命なのです」と説かれました。修煉者が最後にどれほど高い果位に上がれるかは、彼の境地がどれだけ高いかで判断されるので、プロジェクトの中でどれほど高い役職を持つか、技術がどのくらい高いか、名声がどれほど高いのかを見るのではありません。心性を高めることこそ根本です。プロジェクトは修煉の「保護の傘」でなく、常人社会のトラブルを回避するための避難港でもなく、私達の自己満足のクラブでもないのです。しっかり運営させればプロジェクトは衆生済度の武器となり、さもないとかえって修煉者の束縛になります。プロジェクトのために働くのは大法のために努力することではなく、もしやっている中で修煉者としての正念がなければ、常人が常人の仕事をやっているのであり、威徳はありません。 

 ここでまた、「神韻」と他のプロジェクトの間の関係について、自分のちょっとした所見を述べたいと思います。一部の大法弟子は「神韻」も1つのプロジェクトと称していますが、私は違うと思います。「神韻」は師父が自ら行われるもので、「神韻」の歌詞は『洪吟三』にも発表されています。そのため、「神韻」は大法の一部分で、正法の過程できわめて重要な役割を果たしている、と私は理解しています。大法弟子が円満成就する時、大法弟子が経営した、良性循環に入ったプロジェクトは後代の人に残されて引き続き経営されていきますが、一方、「神韻」は新しい宇宙の歴史に永遠に存在していきます。だから、いかなるプロジェクトも「神韻」と比べものになりません。各プロジェクトの運営に大量の資源と大法弟子の人力を使用している目下、どのプロジェクトも、どの大法弟子も神韻を最優先にすべきで、これは正法にとって必要なことだと私は理解しています。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/10/27/248374.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/11/5/129211.html)     更新日:2011年12月17日
 
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