理智的に本筋を捉え、首尾一貫する
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文/中国の大法弟子

 明慧日本2012110日】近年、私たちが理智(本能や感情に支配されず、物事の道理を論理的に考え判断する能力)冷静に法を実証することができないため、人心、人の観念いつも私たちにたくさんの損失をもたらしていました。これらは全て、私たちがまだ成熟していないからです。たくさんの事が師父の期待する効果に達することができませんでした。師父その背景にある原因を指摘されました。「天地难阻正法路 只是弟子人心拦(天と地にしても正法の道を阻止できなく、唯弟子の人心により遮られる)」(「洪吟三」<麻煩>)。

 「師を手伝い、法を正す」毎日言っていますが、私たちはこのように考えたことがあるでしょうか? 誰も師父が法を正すことを妨げる資格ありませんしかし、私たちがよく行わないことこそ、真に師父が法を正す妨げになるのです。私たち自身は変異した観念を持っていないでしょうか? 持っていれば、これは法から逸脱する物質要素ですから、まず正さなけれなりません。特に大陸の大法弟子ですが、幼い頃から共産邪党の社会で生活しているので、様々な変異した観念が形成され、ひいては意識したことすらないだけではなく、法を実証することに対して、つい観念で考えてしまい、師尊が法を正す角度から立って考えずに、真に師尊が要求したこと圓容することができません。

 私自身はこのように深く体得しました。自分の良くない観念が取り除かれていないという問題を見ると、多くの事は最初の認識から皆間違っていたはずです。たとえば初め北京に行き法を実証すること認識せず、次に長春テレビ法輪功真相放送事件発生した時にも私ついて行ず、その後師父の経文を受け取るに至って、やっと間違ったことが分かりました。また三退のことや、『共産党についての九つの論評』の発表、爆竹を買って爆竹を鳴らすことに至るまでの出来事はみな遅々として師父の正法過程について行くことができず、師父が法を正すことをひどく妨げました。

 現在私自身が師尊要求されたことを圓容できないのは、これらの私の考えと法と食い違い旧観念、旧認識です。これらの旧観念と旧認識は法から逸脱するものであり、これらこそまず正さなければならないと私悟りました。「誰か天の主 次元次元に法徒離れて」『洪吟二』無迷」) 私はこの句ある一層の意味がやっと分かりました私たちいつも正法の基点に立たずに問題を考えれば、私たちは法から逸脱するではないでしょうか? 私たちが発した不正な念はドロドロとしたもので、これは直接師父が法を正すことを妨げ悪い物ではないでしょうか?

 大法弟子孫長軍さん救援する文章が発表された後、私はやっと問題の重要性を認識しました。この文章から私も色々な自分が見えました。自己中心な考えや、冷淡、無関心だけではなく、生命を軽視することや、邪悪を自由放任させるような党文化も深く、法理に対してはっきりせず、師父と法に対する正信もありませんでした。同修孫長軍さんはその様に何年も耐えながら、苦しみに耐え、私たちが成熟するのを待ってきました。私たちが真に法を認識しなければ、同修を救助すること旧勢力の按排により終わってしまうと思いながら、一カ月余り過ぎると、私は最初意気込みがだんだん小さくなっているのを感じて、その上同修敖永杰さんと叶松長さんを救助することも割り込んできたので、私はやや困惑しました。同修に対して区別ありませんが、ただ私たち何事をするにしても最後まで意気込みを保ったままやらなければならないと私は思います。師父が最近発表した説法を勉強していたとき、私はこのように悟りました。大法弟子の資源(人力と物質)は有限であるため、大法のことをやる以上、よくやり遂げ、師を手伝う法を正す効果に達しなければなりません。そうでなければ、しないほうがましです。大法の資源を無駄にしてしまった、その責任を負えなければなりません。ですから、現在私は「やるなら最後までやり遂げること」を気をつけています。孫長軍さん救援すること他の空間ではまさに正邪の大戦です。刑務所が人員を多く動員したことは私たちがすでに邪悪の急所を突いていることしています。私たちもう主導権を握ったことしています。しかし、邪悪は自ら消滅することはないので詭計を用いて陽動作戦を行ったり、おびき出しの戦術を使ったりして、私たちの視線を逸らそうとします。邪悪は私たち修煉できていないところや、この事に対する認識不足を利用して妨害してきます。ですから、私たちは冷静かつ理性でなければなりません。強大な正念に全てを主導させ、私たちどの同修を救助するにしても皆、吉林刑務所に焦点を合わせています。しかしながら私は孫長軍さんを救助する、この本筋を外れてはいけないと思います。「初めはわずかな差でも、終わりには大きな差となる」という諺があり、本筋を際立てせながら、主役と脇役のけじめをつけて、どちらが主役か分かっていなければなりません。また、私たちは内に向けて探し、自分を捨てて全体によく協力しなければなりません。難度が高い事に遭遇したら、すぐ避けようとするではなく、もしかしたらもう少し努力すれば解決に繋がるかもしれません。「望みがなければないほど、望みが目の前にある可能性が高いのです。つまらないと思えば思うほど、あなたの威徳を築いているかもしれません。」(『大法弟子とは何か』私たちはくれぐれ気を落とさないで、困難に対して一気に邪悪の巣窟を粉砕するまでやらなければなりません。常人でさえ「域外で百戦し鎧兜(よろいかぶと)が磨かれ穿たれても、西部の敵を打ち負かさなければ決して帰らないと誓う」という大言壮語があるのに、まして私たち大法弟子はなおさらです。私たちは確固とした正念があれば、この機会利用して衆生を救い済度し、邪悪を解体することができます。私たち心配せず、結果も執着せず、師父が要求したことだけ圓容すれば、成功は必ず私たちのものであり、邪悪の巣窟は必ず解体されます。そして、敖永杰さん、叶松長さんなどの大法弟子も必ず正念により刑務所から出て来ることができます。孫長軍さんを救助することは邪悪の急所を突いたと私身を持って感じましたが、このような時こそ、私たちは人心を優位に立たせ、冷静かつ理性を保ち、確固とした正念を持つことが重要なのです。また、私たちは孫悟空のような、全てを見通す眼力を持つべきで、邪悪の計略を見破り、妨害を排除し、共によく協力し合うべきです。さもなければ、これをやりながら、あれもやるというような主要なものと副次的なものを見極めず、理性がはっきりしない状態では、忙しさの中で結果的に旧勢力を手伝うことなるばかりではなく、自分を台無しにすることになり、師尊が法を正すことを台無しにすることになります。「今になっても、一部の修煉者は互いの協調においてまったくできていません。普通にできていないのではなく、場合によってはお互いの足を引っ張り合っています。あなたに教えますが、どういう心であれ、大法弟子のプロジェクト、または大法弟子が行なうべきことに対して、足を引っ張る作用を働いたら、あなたは魔の作用を働きました。」(『大法弟子とは何か』) 本来は邪悪を解体する良い機会なのに何回も機会をして結局最後うやむやのうちに終わらせてしまいました。わけもなく大法の資源を無駄にしてしまい、師尊を失望させるだけではなく、邪悪行方をくらませてしまうことになるので、それはまさに私たちの損失ではないでしょうか。

 私はこう悟りました。私たち大法のプロジェクトを重視できないのは、自分の認識に執着して、それをいつも手放さないからです、その根源は私と我にあります。そのせいで全力協力しようとしませんしかしこれこそ邪悪に隙に乗じられるところです。大法弟子が最後に直面する試練は全体の協力ということなので、私たちは絶対に油断してはなりません。

 私自分は深く体験してこのことをりました。邪悪に「病業」で迫害された時、大法弟子が全体となって発正念して邪悪を解体しようとする時に、邪悪死にかけて足掻き、大法弟子の捨てていない人心を利用して邪魔をしました。あまり効果が出ていないように感じさせ、正しい信念を動揺させました。こう悟ったりああ悟ったりして、あるいは別の事の方がもっと重要だと思ったりするなど、邪魔が止まりませんでしたそして、いつももうすぐ邪悪を解体するというところで、詭計を弄され、逃げられてしまいました。私は邪悪の術策だと分かりましたが、どうしようもありませんでした。私は本当に大法弟子たちが早く成熟してほしいと期待しています。観念を転換して、理性的に正法の立場で問題を考え、正念を固めて、師父が必要とするものに圓容します。散らばった砂のように、互いに協力せず一つになれないなどと、いつも邪悪に笑われてはいけません。私たちはいつも遺憾を残してはなりません、私たちは師父の弟子であり、私たちは絶対にできるのです。

 大法弟子は成熟するはずです。どうするかが分かるべきです。私たちはどうすればうまくできるかが分かるべきです。私たちが行うことは適切に、理智的に行い、賢く行うべきです。「何を行なっても、首尾一貫して、しっかり行ない、人を救うなら相手が救われるようにすべきです。」(「大法弟子とは何か」)師父の教えに従って、私たちは更にうまくできるように頑張りましょう。

 個人の僅かな体験で不完全ではありますが、れんがを投げて玉を引き寄せるためであり、同修とともに検討したく思います。不適切な所慈悲ご指摘ください

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/12/22/250821.html)     更新日:2012年1月16日
 
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