ニュージーランドの大法弟子:もうためらわない
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 明慧日本2012117】尊敬する師父、同修の皆さん、新年おめでとうございます!

 今年の神韻でチケットの売り出しを始める前に、私にはある願望がありました。私は休みの期間を利用して、同修のみんなと一緒に努力し、ニュージーランドの上流社会を開拓し、上流階層に神韻を広めたいと思いました。その時は他に何考えなく、ただ「出来ない事はない」という一つの信念がありました。ですから、チケットの売り出しに参加した時は、同修のみんなと同じで、前向きに神韻の紹介や巧みな売り込み方について準備しました。やり方は、インターネットで神韻の衣装、舞台後方の幕、中国古典舞踊、物語の節、国際的な影響と奥深い文化など、文字による紹介を集めました。自分の言葉でそれらを要約し、さらに暗唱し、同修と何度も繰り返しシミュレーションをして、実際に会社を回り始めました。

 会社を回っていた期間に、多くの人会いましたが、その時はまだ、その人たちはチケットをすぐに買おうとしませんでした。連続して何日もこのような情況が続くこともあり、私は心の中で慌ててしまいました。そして、「今までとても頑張っきたのに、何故、効果がほとんどないのか?」と感じました。そこで、私は工夫を凝らして常人の販売技術を掌握することを自分に課しました。しかし、それは「チケットを売りながら着実に修煉する」というものではありませんでした。こういう場合、決まって良くない考えが伴ってやってくるもので、私は次のように考えていました。「今年少しでも早く上流社会を開拓すれば、来年の神韻では何もしなくてもいい」 ニュアンスとしては、学生がよく言う「学習をするのは単位を落としたくないからに過ぎず、来年もう一度勉強したくないからだ」という感じでした。

 明らかに、心配と動揺により、業績をまったくあげることができませんでした。理想とは裏腹に、執着心が私の頭の回転をショートさせ、煉功学法の時は心静かにならず、さらには目上の人に応対する時も無遠慮で、さらにその他の要因による妨げがあいまって、元々多くなかったチケット販売の時間がさらに少なくなってしまいました。やる気はあるものの実力が伴わず、意気消沈し、日数だけが過ぎていきました。その時、「毎日生活が緊迫して、1日が過ぎていくのに何をしたのかわからない」ということを実感しました。まるで師父がおっしゃった「目が見えないクマがトウモロコシを取る」ようでした。私の自信大きく傷つきました。さらには時々、大切な神韻の交流の時間も忘れてしまいました。

 メディア会社が休みに入り、私はさらに「自分はチケットの売り出しに行くことを余儀なくされている」という感覚に陥りました。「私は他人の冷たさと拒絶に正しく対処できないので、同修と一緒に行かないほうがよいかもしれない」と私は心の中で思っていました。しかし、私は行かざるを得ませんでした。英語ができない同修が人に嘲笑されていましたが、私はそれを受け入れることができませんでした。また「英語ができないことによって、神韻の演出とメディア会社のイメージに対して他人に誤解を与える」ことはいっそう受け入れることができませんでした。いつも、嫌々ながら出かけていました。人を救うことに対して邪魔になる様々な心を、私は修煉で取り除きたいと思いましたが、巨大な挫折感と疲れで、内に向て探すことを止めてしまったのでした。私は毎日、敗残者のように元気を奮い起こすことができませんでした。

 この間、私は市場の中に設置されたチケット売り場へ行きました。チケットを売り始めた時、消極的な状態がまた現れ、思想はためらいがちになりました。表面上は熱心に紹介していましたが、心の中ではなすすべがなく、修煉者が持つべき「衆生を救い済度しようとする心」をまったく持っていませんでした。そのためチケットの値段を聞きにきた人がいたのに、どのように対応すればいいのか私はとっさにわかりませんでした。値段を聞きにきた人が去った後、意気消沈してしまいました。

 その後、発正念の時、私は勇気を奮い起こして内に向て探してみました。この2カ月間入場券を売り始めて以来の体験を振り返ってみたのです。結果、これらの愚痴、意気消沈、失望、ためらいはみな物質であることがわかりました。私は人為的にネガティブ思考を産み出しただけだったのです。自分自身ですら乗り越えられないのに、どうして正しい場に人を連れて来ることができるでしょうか? 二度とこのようなことあってはならないと私は思いました。私は人を救いに来たのです。私の気持ちは、ただ「師が法を正すことのお手伝いをする」ことだけであり、心は平穏で余裕がなければなりません。「大法弟子にとって、皆さんの修煉は最も重要です。なぜなら、あなたがしっかり修めていなければ、行なおうとすることを完成することができず、人を救う力もそれほど大きくないからです。修煉の出来がさらに劣っていると、問題を見る時、考える時に常人の頭で、常人の考え方を用いてしまい、それならさらに悪くなります」(『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』)と師父はおっしゃいましたまず自分がやり遂げなければならないことは、問題を考える出発点を変え、他人を思いやり、衆生を救い済度することだと私は理解しました。

 考え方が明確になると、私の気持ちは平穏になりました。そしてすぐに、発正念は以前と比べてさらにパワーを感じました。チケット売り場に戻ると、私は老人がコーヒーを飲んでいるのを見かけました。私は座ってその老人に神韻を紹介し、持っているチケットを見せました。「このチケットはとてもいいですよ。値段もいいです。それにプラチナチケットの隣の席です」と私は言いました。老人は心を動かされたようでしたが、「妻に相談します」と言いました。振り返って見ると、老人の奥さんは後ろに座って領収書をチェックしていました。老人は首を横に振って、微笑みながら私に言いました。「またあそこで細かく計算している」。私も微笑みながら話しました。「神韻のチケットを購入するためにお金を集めているのですよ、きっと!」というと、奥さんは私たちが笑っているのを見てこっちに歩いてきました。私が奥さんに一言二言紹介すると、老人と奥さんはすぐにチケットを買ってくれました。その場は清浄で、考えがはっきりしており、卵の殻の中に座っている感じに少し似ていました。そして老人夫婦は私の考えについて来たのでした。私はその時、「求めなければ自から得る」のだと理解しました。もっと重要なことは、これは師父の慈悲深い励ましだということでした。

 師父は法の中で次のようにおっしゃっていました。「それらから見れば、私を救ってくれるなら、まず私の次元に達し、この威徳を持ってはじめて、私を救うことができます。あなたにその威徳がなく、私ほど次元が高くなければ、どうやって私を救うのでしょうか? それでそれらはあなたに挫折を味わわせ、苦を嘗めさせ、あなたの執着を取り除いて、あなたの威徳を打ち立てて、あなたがある次元まで修煉してから、その生命を救うことができ、すべてこのように行なっています」(『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』)。私たちは常人の販売スタイルを利用して人を救います。それならば、必ず修煉者の正念があってはじめて人の心を捉えることができるのです。たくさんの執着心があったのでは人を救うことはできないのです。

 同じ言い方、同じ目つき、同じ身ぶり、同じ一言でも、自信がある状態と意気消沈の状態では、この二つの違った状態での表現は、他人に与える感銘が異なるのです。大法弟子はしっかりした自信や正念があるので、衆生を感化できるのだ、と私は思いました。消沈した精神はあってはならないもので、「人を救う」というこの大きな事を考えていれば、極めて強い責任感によってもう私たちが迷うことはなく、正念を持って私たちがやらなければならないことをするのです。最後に、『大法弟子とは何か』の中で師父がおっしゃった一言をもって激励したいと思います。「最も厳しい時期を皆さんはすでに乗り越え、残った時間はそれほど難しくなく、より良く行なうだけのことです。望みがなければないほど、望みが目の前にある可能性が高いのです。つまらないと思えば思うほど、あなたの威徳を築いているかもしれません」

 慈悲深い師父、ありがとうございます。同修の皆さん、ありがとうございます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/1/3/251405.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2012/1/9/130601.html)     更新日:2012年1月18日
 
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