私が法を正す時期の修煉状態に戻れなかった幾つかの原因
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文/中国学習者

 明慧日本2012119日】私は長い間、修煉をやめて常人の生活に陥っていた同修達が、いかにして再び大法の修煉に戻ってたかついて知りたくて、明慧の交流文章を読んできましたが、なかなか参考になそうな修煉体験を見つけることは出来ませんでした。文章の中では「良く学法し、良く同修と交流したから乗り越えられた」との一言でまとめられ、精神面での大法との具体的な同化(昇華)過程が見えてきませんでした。迫害が始まって以来、私はずっと一人で悩み続けてきました。自分には問題があると認識しながら、その問題は一体どこにあるのかを突き止めること出来ず、精進しようと思いつつ、結果として常人社会の泥沼に益々深く陥ってしまいました。

 実際、私のように、長年一人で法を正す時期の修煉状態の枠外さ迷う人は、同修との何回かの簡単な交流によって悩みを解消出来るとは思いません。この間、母親(同修)はひどい病業に悩まされ、同修グループに助けを求めた所、数人の精進している同修達に助けてもらいました。その中には全く面識のない一人の同修もいて、カ月の間、ほぼ毎日遠くから来て、近距離での発正念をして頂きました。知らずのうちに彼らの無私無我の精神がわが家の一人一人に大きな変化をもたらしました。(私の家族は全員が修煉していますが、法を正す時期の大法弟子の修煉状態ではなかったのです)学法、彼らとの交流、そして明慧ネットの交流文章を読むことなどを通じて、私は長年自分を悩ませ続けてきた困惑が徐々に解け始めたのを感じ、ここで自分の修煉の歩みの妨げとなった幾つかの原因を書き出し、再び常人の生活状態に陥らず、精進していく強い意志をめて、以下に整理してみたいと思います。

 一、修煉の出発点

 投獄されていた際、初めて師父の経文「法を正す時期の大法弟子」を読み、この「もし、皆さんがいまだに法を正す弟子とはどのようなものか、はっきり認識できないとすれば、今の魔難の中から抜け出せず、この世で安逸をむさぼる心に動かされ、邪な悟りに陥ってしまいます。」の部分を理解出来ませんでした。数年が経った今でもはっきりと理解出来ませんでした。そしてつい数日前、明慧ネット「神が人間界にいる」の投稿募集を見て、その「神が人間界にいる」との文字が私に衝撃を与えました。過去の自分をじっくり見ることにより、私は自分の最大の問題点を発見しました私はずっと個人修煉の枠の中に留まり、そこから法を正す時期の修煉状態に切り替えず、その上、個人修煉もそれほど精進していませんでした。

 私の修煉の出発点個人修煉に留まっていことがちょうど旧勢力の古い理に叶い、そして旧勢力の根本的目的大法弟子を破滅させることなので、破壊的試練が繰り返され、個人修煉において絶えず苦痛に耐えることが出来なければいずれ安逸心のため、大法修煉から離れてしまいます。学法を沢山すれば正念も増えてくると知っていますが、しかし旧勢力はあらゆる方法を使って私の学法を妨げました。私の時間は様々な不必要な雑務に取られ、学法しようとすれば眠くなるし、結果として毎日疲れ果てていました。旧勢力が作り出した魔難が絶え間なく押し寄せてきて、ここ数年間、私の生活も仕事も順調なことがなく、それどころか他人と同じことをしても他人より倍の時間と労力を使っていました。そのため、いつも疲れを感じイライラしていました。心では常に大法修煉の事を思っていますが、現実では修煉から完全に離れ、常人社会のあれこれに纏わりつかれていました。法を正す時期の修煉という出発点から物事を判断しなければ、旧勢力の迫害を否定しようとしても空論に過ぎません。

 私の出発点個人であったため、自分が精進していなくても、迫害の中で大法と反対方向へ行ってしまった同修よりましだし、もうこれ以上旧勢力の迫害は受けたくない、そしてこれ以上耐えられないと思いながら、迫害を受けるさなか師父の加護により難を逃れてきた数々の奇跡を忘れつつありました。

 出発点が間違っていたため、自分の個人の修煉状態の良し悪しにこだわり、精進しようとする願望が常に良くできていないという自覚によって気落ちしてしまいました

 出発点が間違っていたため、法を正す時期に弟子がすべきことをしょうと思っても、常に「自分を良く保護しよう」と自分を第一にし、潜在意識の中で自分の人心に叶う修煉の道を探しつつ、たまに真相を常人に伝えても良い効果が得られず、更に落ち込んでしまいました

 再び明慧ネットを利用できるようになって、私は「修煉交流特別推薦」のコラムを見つけました。実は2000年から既に沢山の精進している同修達の間で個人修煉と法を正す時期の修煉についての交流が行われていまた。私はそこの全ての文章をダウンロードし、ゆくゆくじっくり読んでいこうと思っています。

 二、自分の修煉に自信をなくした

 迫害以来、自分の行い、そして自分と精進している同修の差はっきり感じていました。邪悪に直面した際、法理の認識が足りなかったため、無理やり毅然とした態度を取ろうとしても、根本的に邪悪を鎮圧する効果がなく、気落ちするばかりでした。監獄から出てきてから、家庭でも仕事場でも、絶え間なく周囲の人から多種多様な攻撃を受け、最後に自分修煉どころか、廃人同然になったと思うほどでした。

 同修との交流によって、私は“自分は駄目”という観念本当の自分の考えでなく、それは旧勢力によって押し付けたれたものだとはっきり認識できました。自信の足りなささえも旧勢力の緻密な按配でした。

 ある日、家族が再び私に刺激を与えた、私は大声で「もうこれ以上旧勢力に利用されて私を攻撃しようとしても意味ないですよ。旧勢力の一切の按配を否定し、私は師父の按配に従います」と答えました。すぐに心に圧し掛かっていた大きな塊が取り除かれたと感じ、久しぶりに心の軽さと愉快さを感じました。きっと師父が他の空間にあるその実質的なものを取っていて下さったのだと思います。もちろん、残りのマイナス思考など習慣性のものは自分で修めなければならないです。例えば、自分が良く修めていないと他人に強調し、人為的に自分を信じることと師を信じ法を信じることはまったく別の事だと思ったり、困難に直面したらすぐにその困難を大きく思い、自ら安易に引き下がったりしたり、常に誰か助けてくれたらと思い、依頼心が強く、法を学ぶより人を真似してしまうことなどです。

 三、人心を放下し学法が出来ない

 十年間個人修煉の枠から出られなかったのは、根本的にはよく学法しなかったからです。

 修煉は皆、学法が一切の根本であることを良く知り、誰もが良く学法し、正念を強く持つことを望みます。しかし本を読んだからといって必ずしも良く学法したとは言えません。最近になって分かったのですが、自分が個人修煉の時期おいて行っていた学法は、「普通の常人が理論的な著作を学習する方法で学んで、即応する名人語録を選んで、自らの行動に照らし合わせるように学んでいて」(精進要旨「法を学ぶ」)のように、常に口のうまい人を崇拝し、法に基づいて少しずつ確実に自分を修めることをしなかったのです。監獄から出てから、大量に学法すれば自然と自分に奇跡的な変化が起こると考え、安易な修煉の道を求めるという、察し難い求める心があって、法を学んでも内涵を得ることが少なかったのです。

 学法する際のもう一つの警戒すべき点は、法の中から自分を正当化する理由を探し出すことです。自分の人心を隠すためのこのような根拠探しは、往々にして無意識のうちに行われるため、その危害も大きいです。自分を正当化しようとしない限り、法理に対する認識が曖昧で困惑していても邪悟までには至りません。

 四、着実に修めること、そして内に向けて探すことが分からず、主意識を強く持てなかった

 個人修煉の時期において、着実に修めることが全然分からず、難が少ないの自分には業力が少ないからだと思っていました。そもそも病気をなくそうとして修煉の道に入ったわけではないので、迫害が始まってからも修煉によ自分の良い体験や大法の良さを人にはっきり伝えず、常人の心に揺さぶられてはならないという、修煉の基本的なこともつい最近分かってきました。

 以前魔難に遭遇したら、いつも常人の理の中で自分を奮い立たそうとし、内へ向けて原因を探す事を思いついても原因を探せませんでした。今わかったのですが、物事の表面上の是非に関わらず、無条件自分の内へ向けて原因を探すべきです。同修の長所は自分の短所かもしれないし、たまたま見えた同修の問題は自分にも同じく存在するかもしれないし、相手の理不尽は自分の人心によるものかもしれないし、同修の善意を人心で受け止めたなら、ちょうど旧勢力の罠に嵌ってしまうかもしれません…

 以前はずっと頭で考えていることは全て自分だと思い、その為に苦悩していました。頭にはまるで雑念の自動生成機能があるかのように、あらゆる雑念が絶え間なく出てきて、学法する時も、煉功する時も入静出来ず、最後に学法も煉功もしたくなくなってしまい、真の自分の考えと自分でない考えを強い主意識を持って区別し、妨害を排除し、正念を強く持つことが分かりませんでした。今はやっと自分の考えの一つ一つを真剣に見つめ、常人の観念に敏感に反応、抑制し、常に正念を持つことの大事さが分かってきました。

 強い主意識はまた口を修めることにも反映されます。私は以前よく出来ていませんでした。言葉の一つ一つに深い考えがなく、簡単に人のことを定義し、発言の中に多くの不満不平と批判があり、そして頻繁に否定語と反問攻めを使い、家族でさえ私の発言を聞きたくありませんでした。今分かったのですが、言うべきでない言葉の一つ一つの背後に人心が潜んでいました。そして以前、きちんと修めなかった所が次々と出てきて、その多さに自分もびっくりして、一々述べることはできません。

 母の病業による死去を経験し、私は更に修錬の厳粛さを認識しました。いかなる場合も、内に向けて探すのが大法弟子にとっての基本で、法を沢山の人に伝えること自分を修めることの代わりにすることはできず、そして法が修錬者に与えた心性の要求は永遠に変わらないもので、私たちはその要求に着実に達しなければなりません。着実に修錬しなければ、自分の法に対する認識が感性から理性へと昇華できず、法の中で自分を高めることもできません。大法の仕事ばかりして自分を修めなければ容易旧勢力の迫害を受けることになり、一方で衆生を救い済度することをせず、単に自分の心性を高めようとすれば法を正す時期の大法弟子の修錬状態から離れてしまい、結果的に旧勢力の按配した道を歩むことになります。唯一、師父の要求に従って三つのことを行うと同時に自分をも着実に修めることで、法の中で精進し大法弟子の使命を全うすることが出来ます。

 以前ある同修に、私の最大の問題は何だと思いますかと聞いたところ、彼は、師父大法に対する生死を放下する堅い信念がないと答えました。最初、私はその答えに疑問を抱き、自分は十分に信じていると思いました。後に、少しずつ分かってきましたが、もし同修が言うような堅い信念が私にあれば、常人に容易に理解されないかもしれないということで悩み、母の入院を主張しなかったでしょう。もし本当に師父と法を信じていれば、長年、師父が私のことを全然気にしていないのではないかなど、考えもしなかったでしょう。もし本当に信じているなら、孤独に感じ、自暴自棄になることはなかったでしょう。

 「それに対し、大法弟子の正しい信念は神の状態であり、真理に対する理解と悟りによってもたらされたのであって、修煉して出来上がった一面の神の状態であり、決して何らかの外的な要素が作用できるようなものではありません。堅い信念のために堅く信じるのではなく、堅い決意のために堅い決意を持つことはできません。」(『各地での説法三 大ニューヨーク地区法会での説法)しかし、同修達の師父法に対する堅い信念は人心を徐々に放下する過程でしっかり修め上げたものであって、私に堅い信念がないのは、正にこの実の過程が欠けていたからだと思います。

 五、自分に党文化の思想が多くあった

 迫害を受ける前、私は人生の多くの時間を学校の中で過ごしました。そこで受けた党文化の洗脳教育によって、私はいわゆるおとなしい学生になり、自分の思考で物事を考えることが出来ませんでした。拘束されていた際も、多くの邪悪の宣伝を押し込まれました。迫害以来、私は真相に触れる機会がなく、ずっと誰かに真相をよく説明してほしいと思っていました。自分も真相が分からないのに人に真相を伝えることなど尚更出来ませんでした。そして以前のように、正々堂々とした心理状態も持てませんでした。常人から簡単な質問をされても答えられないので、更に真相を伝える意欲、勇気を無くしてしまいました。時にはこう思いました常人の理は全て反対の理であって、修煉のことは普遍的に常人に受け入れられない事当たり前で、多分、ごく僅かなとても良い縁のある人しか真相を理解できないでしょう。

 そもそも個人修煉の時期に私はしっかりとした基礎を作っておらず、長年法から離れていた間、テレビ、コンピューター、常人の書籍や雑誌などに多く触れることによって、党文化に洗脳されてきた一般の常人思想あまり変わらず、正常な人ならどんな思想を持つべきかということが自分自身もはっきり分からないまま、どうやって真相を伝えられるでしょう そして、小さい頃から受けてきた無神論説も自分の思想の奥深くに潜んでいると思います。最近、徐々に真相資料に触れ、自信がついてきて、落ち着きも取り戻し、自分の人間としての一面も真相を知る必要があると思いました。久しぶりに集団煉功の写真を見て、法を得た当初の心底から涌いてきた喜びを思い起こしました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/3/16/237600.html)     更新日:2012年1月19日
 
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