文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年1月19日】最近、師父が説かれた「二人の間にトラブルがあって、第三者がそれを見たら、この第三者まで自分のどこに間違いがあるのか、なぜ私がこれを見たのかと考えるべきです。ましてトラブルの当事者はなおさら自分を見るべきです」(『米国東部法会説法』)について、とても多くの体験がありました。ここでそれらを書いて、みなさんの参考になればと思います。
例1:同修のDさんは1、2年経っても家庭の関をうまく乗り越えられていませんでした。これを目にした学法チーム(私は参加していません)の同修達は皆、Dさんに会う度、このことについて彼女が関を乗り越えられるように絶えず交流しました。しかし、この話をすると、Dさんは辛く感じて、涙をほろほろと流しました。仕方なく、他の同修も厳しい言葉を口にすることができなくなりました。交流すると、Dさんは少し状態がよくなりましたが、しばらく時間が経つと元の状態に戻りました。この状況を目にした私は、皆の心がこのことに動かされており、もし皆がその心を放下できなければ、Dさんの状況が徹底的に改善されることは恐らく無理だと考えました。皆と私の考えについて交流し、しばらく経つと、皆向上でき、Dさんは家庭の関を乗り越えることができました。
このことは私と何の関係も無いように見えます。同じ時期、同修のAさんが仕事が自分に合わないため、その仕事をやめようとしていると耳にしました。私と同修のBさんは常人の方法論に基づいて、彼を諭しました。例えば、仕事は容易に探せるものではなく、ボスがとても厳しいことは良い修煉環境である等々。最後に私の心も動かされてしまいました。どうしてあれこれと似たようなことが起きるのでしょうか? 私は突然先ほど述べた集団学法チームの同修達が犯したミスに気付きました。そして私は、Aさんのことから自分が修めるべき執着があることに気付き、Aさんが仕事をやめるかどうかに執着せず、ただ彼に、そちらに行って少しでも向上できるなら、それでよいと告げました。最終的にAさんは、ボスに叱られることが以前よりずいぶん少なくなりました。
例2:同修のCさんには26歳の娘さんがいます。Cさんが「出勤時間になったから、起きるように」と娘に声をかけたところ、彼女に怒られたというのです。この話を聞いて、Cさんは娘に対する情があまりにも重いと私は指摘し、もう成年なのだから自分で自分のことを管理できるようにさせるべきだと言いました。その後のある日のお昼、私は真相資料を作成するため、12時前に子供を迎えにいき、一緒にお昼の食事をすることができませんでした。その日、自宅で発正念(12時の全世界の統一発正念)をすると、その効果がとても良かったのです。その時になって、やっと子供を迎えにいくことと発正念について、無意識に子供を迎えにいくことの方を選ぼうとしたことは、実は子供に対する情がCさんより軽いとは言えないと認識できました。なぜなら、子供を20分ほど待たせることと、しっかり発正念をすることのどっちがより大事なのかは明らかだからです。その日から、小学生の子供は突然、自分ひとりでお昼を食べに行けるから、私の付き添いは要らないと言ってくれました。自分の人心が取り除かれたから、外部の環境もそれにしたがって、変わったのでした。
例3:もう1人の同修(おば)は長期にわたり、旧勢力によって病業の状態に陥っていました。彼女は、生死は怖くないと言いながら、体の苦しみは怖いと言いました。当時、私は彼女にこの点について指摘し、一緒に学法するなかで、彼女に人の上に立とうとする心があることを見つけ出しました。彼女は精進しない同修があれこれ怖がっていることに文句を言い、きっぱりとその同修には真相資料を送る必要がないとまで言いました。このような行為は実質上、旧勢力を助ける行為であり、精進していない同修を旧勢力の方へ押しやることになります。当時私は、「もし自分が同修の誰かから真相資料を送ってほしいと言われたら、必ず送ります。たとえその同修がいかに文句をいっても、それはただその同修の修煉の中に現われた、あまり良くない状態にすぎませんから」と言いました。大法の一つの粒子として、私たちは全体を円容すべきであり、同修らは皆、ますますうまくやっていけると信じるべきです。
最近、何か問題が起きたら、自分のことを考えるようになりました。私は煉功をする時、集団煉功を除いて、「法輪椿法」をやることにびくびくすることがあり、それは典型的な苦しみを怖がる執着心であることに気付きました。この関を突破してから、ひとりで抱輪すると突然とても軽やかな感じがしました。またこういうことがありました。当初、修煉から離れていた同修に会いに行きましたが、1回目に師父の『オーストラリア学習者に対する説法』ビデオを持っていきました。その同修はもうひとりの修煉から離れていた同修も呼んでこようとしました。私は怖がる心があり、ひとりずつ話し合おうと思い、今まで表に出られなかった同修には同じ状況の同修が一緒にいる環境が必要であると思わなかったのです。その結果、翌週に再び行くと、同修は大法が良いことは知っているが、まだ修煉できないと言いました。私は気を落とし、再び彼女達を探しにいくことができませんでた。実は私たちがこのような同修達を引っ張らなければ、彼女らに旧勢力の按排した道を歩ませることに等しく、これは同修が真相資料を送らないこととまったく同じことでした。
(続く)