文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年3月31日】)大法弟子の中で時間に対する執着は主に二つあります。一つは、法を正す時期の早期終結を望む執着です。時間が延びればもう少し多くの衆生を救うことができますが、一方で、時間が経つにつれて一部の大法弟子の修煉状態はマンネリ化して気が緩み、精進するどころか、どんどん自分の次元を落としていきます。法を正す時期の終結が早く来れば、これらの大法弟子は何と言っても大法のために頑張ってきたので、せめて現時点での修煉の成果を得ることができます。
もう一つは、全く反対で、法を正す時期の早期終結を望まず、時間がずっと延ばされていく中で、人間社会の生活の快適さと現代社会の豊かさを味わい、予言の災難も起こらないまま、無理をせずに出来るところまで修めようと考えます。師父は1人の弟子をも失いたくないので、救われる衆生の数もまだまだ少ないのに、こんなに早く終わってしまってどうするのかと思う人がいます。
一時は私も困惑し、上記の見方のどちらも法に則っていないと思いながらも、時間に対してどのように正しく認識すべきかはっきりわかりませんでした。長い間の学法と実修によって、私は自分なりに時間への執着の問題に対し、新たな認識が出来ましたので、皆さんと交流をして分かち合いたいと思います。
修煉の観点から時間を見る
法理によって、異なる空間には異なる時間があることを私達は学びました。ただ、この地球からすれば、見たところただ一つの空間で、皆が同じ時間場にいるように感じます。しかし、大法弟子は修煉により次元を突破するにつれて、時間に対して違う内包も見えてきます。言い換えれば、法を正す時期が今日に至り、時間は既に人によって違います。
精進している同修達の思惟は既に法に同化し、時間の長短に影響されずに安定しています。時間が長くても短くても、彼らにとって時間とは一種のプラスのエネルギーの加持であり、法に則って大法の事を行い、時間が長ければ長いほど、彼らの威徳も大きくなり、修める果位もより高くなります。
しかし、時間の延長に伴い、精進している状態から怠惰になっていく同修にとっては、時間は大きな試練となります。「早く終わって、自分の修煉の成果を手に入れたい」という考えは、根本から言って、時間から与えられた試練の中で、待ち遠しいという人心が暴露されることを恐れている現れです。この時、時間は両刃の剣となり、修煉者を真の神にすることもでき、反対に、修煉者を常人や常人以下にすることもできます。
人間生活を送りながら自分で修煉を按排する同修達は、見たところ時間に対する緊迫感と圧力がなく、とてものびのびとしているようです。地球の時間は常人のために設けられたものであり、常人の状態に符合すれば、この空間の時間を楽しむことができます。しかし、この楽しみをどんなに長く、十分に味わっても、修煉の観点から見れば、生命は益々「常人」になるだけで、この生命にとっての時間は、時々刻々のマイナスのエネルギーとなり、時間が長ければ長いほど破壊力も大きくなり、返本帰真の望みは少なくなっていくのです。
もちろん、これは典型的な例ですが、実際の状況はもっと複雑です。時間は修煉者にとって、修煉の初期と同じものではなくなり、修煉者の一人一人の次元によって時間の内包も違ってきます。同様に時間の延長は、ある人にとっては更に高い次元へと目指す機会であり、ある人にとってはもっと長く常人としていられるものになります。
使命の観点から時間を見る
法を正す時間と法を正す使命は繋がっています。師父は『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』の質疑応答の中でおっしゃいました。「忘れていけないのは、法を正すことが始まってから、法を正す過程そのものも含めて、全ては未来にとって必要かどうかによって決められています」
師父のご要望と新宇宙の需要は最も重要で、新宇宙の需要の基準は必ず満たされなければならず、議論の余地がないことを私達は知っています。もし大法弟子の修煉が要求に達しておらず、救われる衆生の数も要求に達しておらず、神韻の宣伝も要求に達しておらず、また、色々な方面で要求に達していないのであれば、必然的に師父の衆生に対する慈悲により時間が延ばされ、空間が与えられます。根元を辿れば、大法弟子が自分をよく修めていないからこうなったので、弁明の余地はありません。
師父は二○○二年三月の『北米での巡回説法』の中で、法を正すのにあと10年かかると言及されました。「皆さんにお聞きしますが、もし衆生を救い済度することがまだ十年かかるのであれば、皆さんはやりますか? (学習者の皆さんが口をそろえて、『やります』と答えた)」
師父が言われた10年が間もなく過ぎようとしています。もっと多くの救うべき衆生を目の前にし、大法弟子自身の各方面での重大な使命と自身の修煉状態を省みて、私はこう認識しました。真の大法弟子なら、師父に「やる」「やらない」をお答えする資格はないと思います。
私達がまだ人心を取り除いておらず、精進していないため局面を複雑にしてしまいました。師父は巨大な負担を背負われ、私達により多くの時間を与えて下さいました。10年、20年どころか、時間が更に百年、千年、万年延長されても、大法弟子である私達は文句の言いようがありません。大法弟子はただひたすら精進することで師父に恩返しをして、新宇宙の要求する基準に達するまで無条件に師父に従うべきです。
実際、人間社会の時間がいくら使われようと、今回、法を正すことに宇宙全体から投じられた代価に比べれば、取るに足りないことだと思います。宇宙では無数の時間が過ぎ去り、無数の神がこの世に降りてきました。法は三界以外で全て正されました。最後に三界だけが残り、囲まれた状態で法が正されています。今は、全てを師父のご意思に委ねるべきだと思います。大法弟子として私達は、ただ自分の使命を思い、師が法を正すことを全力を尽くして手伝うほかありません。法を正すことに要する時間は私達の使命と密接に関わっています。
時間に囚われずに時間を見る
法に則ってはっきりと時間を認識しようとすれば、時間に囚われずに時間を見る必要があります。修煉者は常人の次元から出て、初めて人類社会の全てが見えてきます。師父は『二〇〇四年米国西部法会での説法』の質疑応答の中でこう仰いました。「この世において、この時間がいくら長くても、ひいては数万年であっても、功が開く時、これが夢だと感じ、夢のように淡泊であり、徐々にこの全てを忘れてしまい、人間の思考が無くなり、人間の考えから人類を考えようとしなくなり、神の思考様式になるのです」
また、『二〇〇二年ボストン法会での説法』の中で師父は仰いました。「もしある日このことが本当に終わったら、まず法を正す時期の大法弟子は圓満成就し、元の位置に戻ります。その時自分が歩んできた道を振り返れば、全てが分かるようになります。もちろん、良く行なったかどうかに関わらず、所在の位置で完全に圓満成就した一人の佛道神は、再びこれらのことを考えないのです。全てが夢のように過ぎ去ってしまい、考えたくもありません」
これらの説法を学んで、私は深く感じるものがあります。それは、私達はここの時間の中にいるから、時間に執着してしまいます。将来、私達が円満成就し、得た永遠の果位から最終的な評定をすべきだと思います。冷静に考えてみれば、常人の次元での時間は、数万年という長いものであっても、私達が円満成就した際、ここのすべてが夢のようになり、思いたくもなくなります。なぜなら、神の思惟には、常人の低い次元での時間の感覚など保存されるはずがないからです。
時間の枠から飛び出て初めて、時間に対する執着の無意味さが見えてきます。将来考えもしない時間をなぜ今思い続け、心を放下できないのでしょうか? これこそまさに大きな執着ではありませんか? 実際、この時間に威徳を積み、次元を高めることこそ修煉者の未来の富になります。
『転法輪』の第九講の中にこのような説法があります。「皆さんは禅宗にも頓、漸の分け方があるのをお聞きになったことがあるかも知れません。禅宗の六祖慧能は頓悟を唱え、北派の神秀は漸悟を唱えていました。彼ら両者は佛教教義のうえで非常に長い間互いに論争していました。これは歴史上の事実ですが、わたしに言わせれば、意義がありません。なぜかと言いますと、彼らが、修煉過程における一つの理に対する認識のことを言っているに過ぎないからです。この理は、たちどころに認識する人もいれば、徐々に悟り、認識する人もいます。どう悟ってもいいのではないでしょうか? いっぺんに認識できれば、それに越したことはありませんが、徐々に悟ってもかまいません。どちらも悟ったことになるのではないでしょうか? どちらも悟りですから、どちらも悪くありません」
個人的な理解ですが、時間の長短は肝心なことではなく、法を正す時期がいつ終わるかも大法弟子が論じることではありません。肝心なのは、悟ることであり、大法弟子の次元の向上なのです。