文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年4月24日】他に法の勉強が困難な同修が何人かいました。ある時、偶然の機会で周という名字のA同修に出会いました。この同修は南方から来て、北京語は全く喋りません。彼女の娘さんは長春に住んでいますが、商売でよく他省へ行きます。以前このような同修が二人いましたが、一緒に法を二回勉強したあと、全部言葉の原因で続きませんでした。今回またこのようなことに遭遇し、私は全力を尽くしてこの同修が法を勉強できるように協力してあげたいと思いました。
この同修は町の東南方向に住んでいて、私の家は西北のほうにあります。彼女が来ても、私が行くにしても、往復に少なくとも3時間以上かかります。道が混んでいる時は更に時間がかかり、4、5時間かかる時もありました。彼女と出会ったのはちょうど冬の一番寒い時期で、東北地方の冬は本当に寒いです。私たちが一緒に法を勉強するために、多くの困難を克服しなければなりませんでした! 最初の一回目、同修は寒さの中でやってきて、服には霜がついていて、頭上からは蒸気が出ていました。彼女は自分だけが読んで、間違ったところを訂正してくださいと言いました。急に言われて、心の準備ができていなかったのですが、しかし、素朴な彼女の顔と期待する視線を見て、私は自分の責任を感じました。師父の話を思い出しました。「実は大法弟子として、こういう時、念が正しければ、修煉のこと、責任のこと、しっかり行うべきことを考えれば、不完全だと思っている部分を黙々と補うべきです。これこそ大法弟子が行うべきことです。」(『更なる精進を』)私は自分の気持ちを調整して、彼女に読ませはじめ、彼女は真剣に読み、私は心を静めて聞いて、間違ったらすぐに止めて訂正しました。最初読み間違いが結構あり、訂正するにも一苦労でした。また彼女はピンインも知らず、同じ発音の字も知らないから、どう教えるか、やりながら方法を考えました。彼女は読む時に字が漏れたり、増やしたりし、アクセントの問題もありました。これらを全て真剣に直しました。『転法輪』を一回読み終えたら、大分良くなり、訂正するところもだんだん少なくなりました。
同修から見れば、私は彼女を助けたように見えますが、私から見れば、私は彼女から素晴らしいものを見習いました。法の勉強について言うと、この同修にはある習慣があります。法の勉強が途中の時、何があっても先に一段落の法を勉強し終えてから、何かをします。彼女と初めて会った時も、彼女は同じく、その段落の勉強を終わらせてから、やっと私と挨拶をしました。また法の勉強に対する緊迫感があり、周りに同修がいない時、自ら市場へ行って誰にでも法輪功の修煉者を知らないかと聞き周り、知らない土地でこのような行動をとることが、自分に何か危険をもたらすのではないかとは全く考えていませんでした。法の勉強も、いつもとてもまじめでした。個人的には、同修を助けることで自分も助けられます。同時に同修は師父がくださった一枚の鏡で、常に同修のところで自分を映していると感じました。A同修と法を勉強するとき、基点を純正に保ち、思想が集中し、正念が強く、法が心に入らないことを取り除くことができ、思想が他のことを考えたりすることもなくなって、落ち着かない状況もなくなりました。
師父は『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』の中で「皆さんが出合うすべてのことも偶然ではなく、それぞれ歴史上でそのように按配されたのかもしれないので、皆さんが行なっていることを軽視しないでください」と説かれました。私とA同修との出会いは偶然に見えますが、実は師父の按配であり、彼女を見つけるよう師父が按配してくださいました。最初、彼女と法を勉強した時のためらいは人心であり、彼女の発音を聞き取れないという心配も人間の観念でした。同じ法門の弟子として、同じ法を修め、法は無限の威力があるので、最後に師父が按配したことは必ずうまくできると、この一念を持って、やっているうちに師父は知恵と力を与えてくださいました。A同修は真剣に読んで、私は静かに聞き、『転法輪』の中の一文字一文字は自分の心、頭に入りました。それから言葉の障害は問題ではなくなり、同修は素早く進歩し、私の心性も同時に高まっていました。これは大法の威力で、現れてきたのは師父の慈悲と威厳です。このすべては師父が与えてくださったのであって、師父の加持がなければ何もできません。
(続く)