最初の善良な純真さを取り戻す
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年4月27日】法を得た当初、私はまだ20歳未満の女の子でした。小さいときから正統な家庭教育を受けてきた私は、人と腹を探り合って暗闘するなどのことを知りませんでした。法を得た私は、大法によって精錬され、雑念がなくなり、心根が優しく、純真で単純でした。頭の中には常に何の念もない状態ですが、心の中ではいつも喜びと、光と優しさを感じていました。

 しかし、99迫害が始まり、正しい念を持てなかった私は「真相を伝えたら迫害されるのではないか?」と思い、結局本当に迫害されました。仕方なく私は実家を離れて他の地方に辿りつきました。そこで、私と同年の2人の同修と出会いました。1人は男性・Aさんで、後に私の主人になりました。最初にAさんと出会った時、彼は優しく接してくれる一方で、結婚をせまられました。彼は「結婚すれば2人はもっとよく修煉できます」と言いました。私自身も、大法弟子との結婚も悪くないと思い、彼と知り合ってすぐに結婚しました。しかし、結婚生活を始めてから分かったのですが、Aさんの行為は全く大法弟子の行いからかけ離れていて、金を湯水のように使い、人を殴ったり、罵ったり、また私の人間関係の対処の仕方も指摘し、「馬鹿」だと言ったりしました。自分の善良さを彼に利用された私は人の世の険悪を知り、また経済的困窮もあって、私も常人を真似て彼と彼の家族に本心を見せず、人のことを悪く思うようになりました。

 私は修めることを良く理解できず、人の真似をし、いつもマイナス面の教訓を吸収し、多くの回り道をしました。その後、正しい修煉の道に戻った際、私は自分の様々な問題点を見つけました。そして、自分がなぜAさんに出会ったのかも分かりました。それは正に自分の正しくない念がそれを求めたのです。私の根本的な執着は「世間での幸福を求め、一緒に修煉し、そして共に生活できる同修を見つけたら幸せなことではないか」と思っていたことです。その執着があったが故に、私はAとの結婚を選び、結果としてその後の一連の魔難に遭遇するはめになりました。今はやっとそこから抜け出しました。

 今度はB同修について説明します。これもまた私自身が求めて招いてきたものです。私は純真さが故に、同修のことを非常に神聖に思っていました。しかし、知らずしらずのうちにそこに人心を加えました。当時、私は同い年の同修を1人も知らず、潜在意識の中に「もし同い年の同修がいて、どんな話も隠さずに話し、友達として接することができれば、どんなに良いだろう」と思っていました。これも一種の友情に対する執着心であり、しかも大法の中で執着していました。非常に厳重なことであるにも関わらず、私はそれに気づかず、旧勢力の按配によりBと知り合い、彼の影響で処世術に長けるようになりました。

 この2つの出来事を経験した後、私はこれらの全てが自分の心による魔難だと認識しました。時には、10年前の自分を思い出すと、その時の自分は如何に愚かだったかとも思うし、また、その時に感じていた真の喜びと心の安らかさを懐かしく思い、呼吸していた空気でさえも清らかなものだったと感じています。以前の自分は間違っていたのでしょうか? この時、師父は私に1人の同修に出会うよう按配して下さいました。

 女性同修Cさん人の背後で他人と議論したり、指摘したり、また悪口を言うようなことをしません。彼女は、困難に会った同修に対して、誰にでもやさしく手助けをします。私は彼女から善の心を感じました。彼女がいつも、私達は「無私」と「他人の為」になるよう修めていますと言っています。また、Cさんは「自分は以前、とてもやさしい人でしたが、1年間の不当拘禁を受けてから世の中の険悪を知り、人柄がだいぶ変わってきました。でも、やはり当初の善良な心に戻らなければなりません」と言いました。私はこれを聞いて衝撃を受けました。今のCさんでも私から見れば十分やさしいのに、それでも彼女は自分が落ちたを意識し、努力しようとしています。私は今の自分が正しいと思っていいでしょうか?

 ここ2日間の学法で、私は学びました。単純で、善良であることは本当に良いことで、人生の経験や観念は本当に良いことではありません。それによって、人間がどんどん利己的に変わっていくだけです。「常人社会で一旦経験を積んでしまい、頭に枠ができてしまった時、老練で経験豊富であるなど聞こえのよい言い方がされますが、実は既に自分を悪くしました。これらの観念があるからこそ、あなたは宇宙の真相、本質と宇宙の真理と相容れなくなりました。これらのものが後天的に形成されたものなのに、どうしてあなたであり得るのでしょうか?」(『オーストラリア法会での説法』)これらの法理が分かってから、私は自己保護の念頭を放棄し、元の単純で純朴な状態に戻れるように努力しました。すると、私は心が次第に静かになってきました。以前は、心が複雑だったため、頭には絶えず雑念が浮かび、発正念時には、どんな考えも浮かんでくるし、何もしない時でも頭の中では勝手にストーリーが出来上がってきます。また、常に不平不満や憤り、悔しさ、また人に対し用心しなければならないと思うと、とても辛かったのです。

 単純で善良であることは、本当の愚か者ではなく、本当に損をすることもありません。私達純朴で善良であるとき、心が穏やかで、容易に自分の法に符合しない部分を見つけることができるし、相手の問題点も一目瞭然です。相手が偽善を装っても、その中に陥ることはありえず、真の智恵を得られるのです。私にとっての最大の関は常人から来るものではなく、同修から来るものだと気付きました。同修と接する時、慈悲で穏やかな心情を持って、同修の人心に動かされないようにすることが非常に重要だと思います。

 個人的な体験ですので、不足の部分がありましたら、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/4/23/256111.html)     更新日:2012年4月28日
 
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