文/無私
【明慧日本2012年5月30日】中国五千年の文明は、私達が大法を得るための基礎を創ってくれました。今、逆にそれを使用して人々を救うのです。こんな詩があります。「まっすぐ見渡した時に山頂が見え、横から見た時には峰が見え、遠くと近くで見た時は高さが違って見える、廬山(ろざん・中国江西省九江市南部にある名山)の真の姿が見えず、原因は自分の身がこの山の中にいるから」今、修煉をしていると、この詩を読むと違う味わいがします。私達は旧勢力を見ることができません、それは彼らが仕組んだ按排の中に私達がいるからではないでしょうか?
旧勢力は最後の最後まで、正法の妨害をすると、私達は知っています。最後の段階だからこそ、いっそう破壊的に大法弟子を検査しているのです。彼らの目的は衆生が救われないことです。私達が旧勢力の按排、コントロールから抜け出すことこそが、本当の安全に繋がり、師父が按排してくださった路を歩くことができます。また正法の進程について行くことができ、衆生を救うことを手伝えます。
法を学んでいると、旧勢力は旧宇宙の生命であることがわかります、私利私欲は彼らの逃れられない特性です。その特性が彼らを破滅に向かわせるのです。新しい宇宙の特性は無私無我で、相手のことを思いやり、生命が永遠に続く原因なのです。この角度から考えますと、無私無我の大覚者になるためには、旧宇宙の私利私欲の特性をなくすこと、旧勢力の按排を否定することが重要になります。
旧勢力がどんなに高次元の生命であっても、いかなる能力があっても、彼らは旧宇宙の中でしか自分の力を発揮することができず、新しい宇宙の生命を操作することはできません。修煉者に人心や漏れがあったり、旧宇宙の特性がまだ残っていたりすると、彼らに隙を与えることになり、迫害する理由を与えることになります。そうでなければ、彼らに新しい宇宙の生命を迫害する理由がありません。
以下に、我々が基点を間違い、私利私欲の念が現れ、旧宇宙の特性に符合するところをまとめてみました。
学法はするが実際には修煉をしない。大法から与えて貰うだけで、人々を救おうとしない。三つの事をしないとき。
執着心があっても捨てようとせず、今となっても内に向けて修煉をしない。本当の執着心を見つけられず、自分の考えを守ろうとするとき。
師父の教えにも気に留めず、自分にとって都合のいい部分だけを理解し、執着心を隠そうとするとき。
同修が助けを必要としている時に助けない。修煉の不足に気がついても無関心であるとき。
自分を守ろうとして、人を危険に晒してしまうとき。
自分の考えだけを主張し、自分だけを守ろうとし、回りと調和をしないとき。
同修に対し八方美人でずる賢く、あたりさわりなく物事を運ぼうとするとき。
周りの状況の変化を期待し、修煉の時間に対して執着し、怠けたり、修煉が終わるまでなんとか辛抱すればい いという気持ち。迫害から早く逃れたいと思い、自分が圓満成就したいと思う気持ちのとき。
恐怖心を捨てないで、世の中で何かが起きると、すぐに身を潜めて情勢を見てから、身の振り方を考えようとするとき。
常に他人を指摘して、人を変えようとする。全体と調和しようとせず、自分を変えようとしないとき。
こんなにも多くの私利私欲の観念は、旧宇宙の特性に符合し、この観念はみな旧宇宙の管轄範囲内にあるの です。それならば、迫害から逃れられるでしょうか?
最近、同修から大法の本が欲しいと頼まれましたが、私は考えもせずに、面倒で危険に晒されるのは嫌だと思い、「他の同修にお願いするように」と言って断りました。その日の夜、私は夢の中で旧勢力から悲惨な迫害を受けました。どんなに逃れようとしても逃れられませんでした。目が覚めた後、発正念をして内に向けて探し、悟りました。私利私欲の基点から物事を考える考え方を脱することができれば、旧勢力の按排から逃れられるのです。
その後、同修に「助けを求めているのに、あんなに冷たい態度で断られたら、相手の人はがっかりしたでしょうね!」と言われました。私は内に向けて考えました。
1、もし私にできない事なら、私の所に頼みには来なかったでしょう。偶然なことは何一つもありません。すべては師父の按排です。
2、同修のことを自分のこととして考えていませんでした。同修が学法しようとしているのに、人を助けようとする気持ちがありませんでした。引き受ける過程に難しさがあっても、基点が間違っていないのだから、正の生命が力を働くと思います。修煉のチャンスでもあると思います。それなのに私はなぜ、一言で断ってしまったのでしょうか? 基点が正しく、無私無我であるならば、みな協力してくれます。
機械が苦手な年配の同修が、真相を伝えるDVDを複製しようとしているのを見て、私は積極的に助けてあげます。過程に困難があったりしますが、いつも師父に見守られていて、順調に事が運びます。同修が神韻のDVDを複製しているのを見ると、無私無我で人を思いやることができる素晴らしさを実感します。
昔、煉功場に妨害が入った時、まず考えたのは、身の安全の確保のために自分がその場所から離れることでした。今は私利私欲の念を排除し、同修が内に向けて探すことを助け、他の同修に危険を知らせます。個人の安全よりも全体の安全がもっと重要です。行動が伴わないことを言うよりも、問題点を重視し、妨害を修煉のチャンスとしてとらえ、自分が修煉すると同時に同修も助け。発正念で妨害を排除します。全体の昇華がもっとも重要です。
旧勢力が妨害してくるのは、私達に不足な所があるからではないでしょうか? 私達の念が無私無我の境界に達した時、救える人数も師父が希望されている人数に達するでしょう。旧勢力は私達に届くことができません。新宇宙の生命は彼らの管轄ではないのです。私達は師父の管轄下にあり、新宇宙の生命は新宇宙の特性に符合しなければならないのです。みながそうできれば、世間の環境も変わるでしょう。
不足の部分は、慈悲なるご指摘をお願い致します。