文/山東省の大法弟子 林蓮
【明慧日本2012年5月31日】1999年12月初旬、私は「災い転じて福となす」の諺の如く、刑務所で法輪大法と縁を結び、修煉を始めました。13年来、私はその時のことを思い出すたびに、師父に対する感謝の気持ちで涙が止まりません。
私は1993年まで、ある国営被服工場の技術管理課に勤務していました。名利心に駆られた私は、いわゆる改革開放ブームの中で、個人で企業経営をしようと思いました。経営に対する知識も経験もありませんでしたが、度胸とちょっとした技術面の知識があることで、あちこちから借金をし、小規模な被服工場を立ち上げました。私の人柄が良いといって、友達や親戚がお金を貸してくれ、利息を付けて返済する形で、20数人から約20万元を借りました。当時の20万元は相当な金額でした。
私は社長になってから毎日が忙しく、商売もますます繁盛し、周囲の人々から羨ましがられていました。しかし、健康診断で子宮腫瘍と心臓病が見つかり、体に問題が出始めました。しかし、名利に対する執着はますます膨張していき、対外貿易で事業を拡大しようと思いました。友達の中に易経の分かる人がいて、その人は「あなたの運命の中にはそのように大きな財とそんなに多くの人々を率いる能力はありません。あなたは運命に逆らうことはできません」と言いました。しかし、私は名利に目が眩み、事業拡大を本格的に進めました。
1996年春、知人のお婆さんが、私の冴えない顔色を見て、法輪功を紹介してくれました。この功法がどのように素晴らしいか、病気治療と健康保持にも効果があると言いながら、私に五式の功法を教えてくれました。私は「それは素晴らしいですね。しかし、私には修煉する時間がありません、時間がある時にお婆さんを訪ねますね」と言いました。このようにして、私は大法との機縁を失ってしまいました。
1997年の下半期、アジア金融危機の嵐は私の工場にも影響を及ぼし、受注は激減し、受注しても、原料の手配に問題が発生しました。適時に納品ができない状況になり、そこで経営はさらに悪化していきました。日常の経費も多く、資金繰りがいよいよ困難になりました。私は毎日歯が痛くなるほど悩みましたが、人前では成算がある振りを装い、非常に苦しい日々でした。
その時、工場の技術主管の父親が佛を信じる人で、その人に教えを請いました。彼は「佛家は人に吉凶を占うことはできません。せっかく来たのだからちょっと話しますが、あなたは普通の人ではありません。あなたは天上から下りて来た人です。あなたに対句をあげましょう」と話しながら、私に紙を渡しました。それを開いて見ると「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」と書いてありました。具体的な意味は分かりませんでしたが、佛陀は善であると思い、私は工場に持ち帰り、オフィスにかけました。他の人は私を見て迷信だとあざ笑いました。
時が経つにつれ、状況はますます悪化し、当初お金を貸してくれた人たちも、お金の返済を要求してきました。私は工場の日常業務を人に任せ、毎日お金を借りに外を走り回りました。債権者と出会うことを恐れて、夜遅くに帰宅しました。
ある日、私に3万元を投資した友達がヤクザを雇って、私を銀行の入り口まで拉致し、お金を返すように脅迫しました。テレビで見た光景が目の前に現れました。私はそこでやっと、今まで命のゲームをしていたことに気がつきました。私は彼らに「直ぐに返すから、工場はまだ正常に生産しているから」と甘い言葉を話すと、彼らは私を解放しました。私は家に帰ってから、工場の真実の経営状況を夫に話しました。「もうこれ以上借金することはできず、工場にはお金を用意するために出張すると伝えて、ここから離れよう・・・」と夫に話しました。夫も私の意見に同意しました。
私たちは親戚がいるハルピンに着きました。親戚に手伝ってもらって、部屋を借りました。冬になり、大雪が降りましたが、冬の衣類もありませんでした。しかし、残ったわずかなお金には手を出したくありませんでした。私はその時、まだ懲りずに再起しようと考えていたのです。
(続く)
(明慧ネット「法輪大法が伝え出されて20周年記念」応募作品)