文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年6月11日】「隔たり」という言葉の表面的な意味は、誰もがお分かりでしょう。同修同士でもよく「隔たり」を無くさなくではと口にします。しかし場合によっては、同修同士で知らないうちに「隔たり」をつくっています。ある時、同修と一緒に文章を読んでいて、隔たりという言葉の本当の意味が解かりました。隔たりというのは、私達が修煉をする上での考え、行いの中から生まれます。私達の考えや行いが大法に基づいているのかによって、無意識のうち隔たりを造ったり、無くしたりしています。
ある日の朝、同修の姉と一緒に煉功をしていました。姉は顔色が悪く、力もなく手を挙げることもできず、苦しそうにしていました。私はイライラして背中を向けてしまいました。心の中で姉に対しての苛立ち、不平不満が一遍に溢れて、「お姉さんが精進をしないからだ。嫉妬心を捨てずに邪悪な生命体に隙を与えてしまうから、長期にわたって病気のままなんだ。このところずっと、お姉さんの為に発正念をしていて、迷惑を掛けられてばかりだ」と不満だらけでした。こんな風に考えれば考えるほど、姉の苦しそうな声がどんどん大きくなりました。苦しそうな声が私の目を覚ましてくれました。「私はこれでも修煉者なのだろうか? 善の心が全くありません。姉のあれこれがいけないと考えていました、姉の空間によくない物質を投げていないでしょうか? このよくない物質が隔たりを作っているのではないだろうか?」と思いました。
師父は「あなたがぶつかったこと、接触したことはいずれもあなたの範囲の中の要素です。あなたの正念が強ければ、あなたは自分の範囲で強くて高くなり、中にある良くないものを抑制することができます。」(『大紀元会議での説法』)とおっしゃいました。
姉の状態を私が見たということは、私と無関係なはずがありません。私は無条件に内に向けて探すべきです、私の念が正しくないから隔たりができ、邪悪に隙を与えたから姉が迫害を受けたのです。内に向けて探していると、隔たりが無くなり、苛立ちや不平不満が、穏やかさや慈悲、包容力へと変わっていきました。内に向けて探すほど玄妙になります。相手を探していたのが、自分を探すようになり、人心が一つずつ見つかりました。焦り・苛立ち・利己的・冷淡さ・競争心等などが見つかりました。修煉というのは自分を修煉するものです、姉の状態は私に内に向けて探させ、隔たりを無くすため、全体が昇華するために現れたのです。
そんな風に考えていましたら、私は申し訳ない気持ちで、体を姉に向けて言いました、「私達全体は一つです。お姉さんの事は私のことでもあります。誰も私達を隔たせることはできません。誰も私達を迫害できません」姉は辛さに耐えながら言いました。「私はただの金剛ではありません。煉功を最後まで続けます!」と言いました。姉は、法輪椿法の輪を抱く動作が正しくできように、腕を何回か高く挙げました。両側抱輪の動作に変わった時、先程まであった症状が無くなりました。何事も無かったようで、全くの別人のようでした。姉は嬉しくって「無くなった! 良くなった! 神業だね!」と言いました。私も感動を抑えきれなくなり、涙が溢れ出ました。内に向けて探すのは本当に素晴らしいことです。
この出来事で、私は調和の力を更に深く感じることができました。師父は講法の中で幾度も全体の調和について話されました。全体の昇華が重要です。全体の調和が直接的に正法の進展に影響します。私は普段から実修を重視しないため、悟りも遅く人為的にお互いの隔たりを造っていました。全体の学法も恐れる心から参加しませんでした。同修が不法に連行されたときも、積極的に発正念をするのではなく、同修の不足部分を探していました。同修が病気という、うわべの現象の魔難に陥った時も、同修を助けるのではなく、陰で同修をとやかく言っていました。苛立ちから指摘ばかりし、辛抱することがありませんでした。教育をあまり受けていない悟りの悪いお年寄りの同修を嫌ったり、排除しようとしました。これらは全て外に向けて探しています。全体に隔たりをもたらしています。隙間が全体の力を弱めています。邪悪が隙間に入りこみ、全体にトラブルや煩わしい出来事を次から次へと起こします。
同修の皆さん、自分自身から始めましょう。外に向けて探す習慣を変え、内に向けて探す習慣をつけましょう。内に向けて探してこそ隔たりをなくせます、巨大な空間ができ、漏れのない全体ができます。巨大な空間のエネルギーの場の中で邪悪な生命を消滅するのです。