【明慧日本2012年6月26日】私は広東省チョウサン地区の大法弟子です。1997年以来ずっと、師父の慈悲なるご加護の下で修煉し、何回も危険から守られ、私は次第に最初の感性による認識から理性的になり、大法は真に人が神になることのできる大法だと分かりました。
一、私は舞い上がった
1997年、私と主人は一緒に大法修煉を始めました。毎日、朝に煉功、夜に学法し、周りの同修と同様に健康になり、元気一杯でした。他の功法と比べて、全く違うので毎日煉功点に行くだけで嬉しくてたまりませんでした。
ある日、私はベッドに横たわって、師父が『転法輪』の中で話された状態を体験しました。「大周天が通ると人は飛ぶことができるのです」私はふわふわと舞い上がって、どうやって上がったのかも知りませんでした。それから静かに舞い降りてきました。当時の感覚は言葉では言い表せません、神仙以外には誰もできないことです。その日から、私は大法と師父を固く信じて、修煉の中でどれだけ苦があっても悔いがないように続けようと思いました。
二、生き生きと若返った
修煉してから、次第に師父は私の身体を浄化されました。主人が毎回顔を洗うと、洗面器の中が濁って、顔の皮膚の屑が重なりあって落ちていました。これは師父が身体を浄化されていると悟ったので、私たちはちっとも慌てませんでした。しばらくしてから、主人の顔はつるつるになり、顔色も白の中に赤みがあって、黒い斑もなくなりました。50歳を過ぎれば、大抵しわで一杯になるはずですが、主人の場合は何回かの浄化を経て、どんどん若く見えるようになりました。いつも周りから羨ましがられ、私たちは法輪大法を修煉していると答えました。
ある日、主人に消業の症状が現れました。一週間、何も食べることができず、生臭い血と水を排泄し、小便も変な臭いがして、ベッドに寝ていることしかできない状態でした。「そこでわたしたち修煉者は、師父が消してくれた業のほかに、自分でも一部を返さなければならないため、身体が辛く、病気のような感じがありますが、修煉とはまさに人の生命の本源からあなたをきれいにしてあげることです。木の年輪のように各層にみな病業があるので、中心からあなたの身体をきれいにしてあげなければいけないのです。いっぺんにすべて押し出せば、人間は耐えられず、生命の危険があります。ですから、しばらくして一つか二つを押し出すことしかできないのです。こうすれば人間は耐えられるだけでなく、苦しむ過程で業を返済することもできます。しかし、これはわたしがあなたのために業を消したのち、あなた自身で耐えるよう残しておいた、ごくわずかなものに過ぎません」(『精進要旨』「病業」)との師父の説法を、私たちは繰り返し学習しました。
主人はベッドから起き上がることができませんでしたが、私たちは師父が体を浄化されていると信じ、病気ではないとわかったので、怖く感じませんでした。この時、まもなく大学を卒業する息子から電話が掛かってきました。両親が学校に行って、学士の帽子をかぶった息子と記念撮影しなければならないとのことでした。親であれば誰でも、わが子がこの日を迎えることを望んでいます。しかし、息子は自分の父の状態を知りません。電話の中では話を濁して、そのまま切りましたが、電話の後、私たちは困りました。慈悲なる師父の法像を見て、急に良いアイディアが浮かびました。今回は病気ではなく、単なる体の浄化だと分かったので、それならば師父に一日の休みを貰いましょう。一日だけ、息子の卒業式に参加できれば十分ですと師父にお願いして、師父の法像の前に跪いて、線香を立てました。すると、主人は起きあがることができ、お粥を食べてからバスに乗って学校へ行きました。卒業式では、何事もないように息子と話をし、記念撮影をしました。これだけ元気な人が、一週間何も食べていないとは、誰にもわかりませんでした。不思議なことに、家に戻ってから主人は再び血を排泄し、尿も臭い状態に戻りました。さらに一週間後、普段通り、学法と煉功ができるようになりました。普通の常人ならば、この2週間にどれだけのお金を費やして治療を受けるでしょうか。この日から、主人の腰痛病も治りました。私たちは一層、大法修煉の心を固めました。
(続く)