文/北京の大法弟子
【明慧日本2012年6月30日】
恐怖の中の幸運
私は1993年1月3日に修煉を始めました。昨年(2011年)の新年の直前、北京近郊の自由市場へ行って真相を伝えた時、ガソリンスタンドを探すために自転車道を越えてきた車にはねられました。私は顔と体が道路にくっついて、2メートルくらい吹き飛びました。薄いセーターを着ていた女性の運転者はぶるぶる震えて、車から出てきました。「大丈夫ですよ。私は修煉者なので、ゆすることなんて絶対にしません。でもどうして車が自転車道を越えてしまったのですか?」と私は立ち上がって言いました。ガソリンスタンドを探していると、彼女は答えました。
彼女が寒そうにぶるぶる震えている様子に気づいた私は、彼女が三退すれば命を助けられることを知っているかどうか、簡単に聞きました。「はい、聞いたことがあります」と彼女は返答しました。「蔵字石については?」「はい、それも聞いたことがあります。」「もう三退をしましたか?」「学生時代に成績がよくなかったため、隊にも団にも入りませんでした」と彼女は言いました。「では、今後も無事に過ごせるように『法輪大法が素晴らしい』、『真・善・忍が素晴らしい』を覚えてください! そうすれば、危機に遭遇した時に助けられますよ」「ありがとうございます。本当に心から感謝したくてたまらないのです」と彼女は言いました。
私は「もし感謝したいのなら、師父に感謝してください!」と言いました。「はい、わかりました」と彼女は返答してくれました。「寒いですので、早く車に戻ってください」との私の言葉を聞いて、彼女は涙で目を潤ませながら帰っていきました。
彼女が去った後、確認してみると、服も顔も怪我はなく、本当に不思議だと思いました。師父に守っていただいたことがわかり、涙を流しながら、自分自身も幸運であることがわかりました。
私について
1.邪党のため、苦難の人生を歩んだ
私が生まれた一カ月後、母は産後の病気のため亡くなりました。家が貧しいので、父は私を、米屋を経営していた回族の家へ養子に出しました。養父は1948年からこの米屋を経営し始めました。戦乱の世でしたから、都市の外へ出たり、中に入ったりすることはとても不便でした。国民党員であれば通行許可証をもらえたため、養父は1948年8月に国民党に加入しました。しかし数カ月後、共産党が北京を占領し、養父は反革命者として取り締まられました。1953年に取り締まりは解除されましたが、米屋の経営はもう無理でした。その代わり、養父は雑貨屋を経営しましたが、工商署や税務署からよく嫌がらせを受けました。
1956年、個人企業はすべて国家企業に合併され、共同経営になりましたが、養父の店は合併が上手くいかず、つぶれてしまいました。養父の故郷は北京郊外の農村だったため、そこへ帰させられました。1960年、北京の警察は泥棒、ごろつき、仕事ない人たちと、養父を含めたいわゆる“歴史的問題者”たちを集めて、天堂川農場で“労働による改造”が行われました。それから、養父は定年退職の数カ月前まで、ずっと天津市の茶淀や山西省の長治で働かされました。このように、養父は国民党員という身分により、人生の大半を苦難と苦痛の中で過ごしました。
生活のため、私は1958年に退学して仕事を始めました。その時は、「大躍進」のため、朝四時から夜十時までずっと仕事をさせられました。私はまだ若く、他の人に負けないために、ご飯も食べずに超時間労働をしました。毎日15~16時間も働き、しかも家に帰るまで何も食べられなかったので、ひもじくてたまらなかったです。また、きつくて汚い鋳造の仕事のため、健康を維持するために当時2~2.5角程の高価な料理も食べてしまいましたので、16元の給料では足らず、家計を助けられませんでした。
若い時、私は運動が大好きでした。偶然にも体育学校の監督から重量挙げの選手として体育学校への入学を推薦してもらいました。その後、成績が良かったので、北京代表に選ばれ、第二期の全国体育大会に参加しました。試合の成績を求めるため、邪党の市体育委員会は日本の女子バレーボールに学ぶことを要求し、トレーニングの時間を毎日八時間に延長しました。あまりに過酷なため、トレーニングが終わると、階段を登ることすらできないほど疲れ果てました。体への負担が大きすぎたため、みんな負傷してしまいました。私も大会に参加できないほどの重傷を負いました。それから1966年に、文化大革命でチームが解散させられたため、私は工場に戻りました。その後、怪我は年齢とともに増えていき、腰、足、肩はすべて病気になりました。怪我を治すため、私は気功の練習をしましたが、なかなか良い効果は得られませんでした。ひざは骨軟化症になり、歩くこともきつくなったため仕事を変えてもらいましたが、時々病気で休んでしまう有様でした。
2、幸いに修煉を始め、全身が軽くなった
1992年の末、私は通勤中に法輪功講習会の広告を見て、1993年1月3日からの講習会に参加し、大法の修煉を始めることができました。四日目の講習会が終わり、帰宅中に、私は事故に遭いましたが、師父にジープの下から救い出され怪我もしませんでした。非常に不思議なことでした。七日目から、師父は私の身体を浄化してくださいました。私は緑色の水を吐き、それから濃い赤のものになり、最後にはアスファルトのようなものを吐き出しました。その後、胃病が良くなり、両膝の骨軟化症、五十肩や肝炎などの病気も完全に治りました。
身体が軽くなると、気持ちも良くなりました。職場でも、大法に従って厳格に自分を律しました。他の人がやりたくないことでもやりましたし、どんなに汚い仕事でも、どんなに辛い仕事でも、文句を言わずに努力しました。しかも、ボーナスが配られたとき、他人と利益を争いませんでした。このように仕事をしっかり行い、人間関係もうまくいきましたので、職場の優秀社員や会社の優秀社員として選ばれることがよくありました。定年になっても、職場に残って働き続けてくださいと、上司から言われました。1997年になり、私は公園で大法弟子と一緒に煉功したり、交流したりしたい気持ちが強かったので、仕事をやめることを決心しました。私の身体の変化を見て、連れ合いも修煉を始めました。
退職してからは時間に余裕があり、私と連れ合いは毎日、公園へ煉功と学法をしに行きました。毎日が充実して元気で、楽しかったです。1999年、法輪功への迫害が始まってから、私たちも上京して陳情に行きました。
3、真相を伝えて世人を救う
1999年7.20から、共産党は法輪功を中傷し、迫害を始めました。人々に真相を知ってもらうために、2000年から、私たちの学法チームは真相のチラシを配ったり、横物をかけたりしました。2004年に『九評』が発表されて以来、世の人々に共産党が行ってきた残酷な迫害を深く理解してもらうため、私たちは『九評』を配り始めました。そして2006年からは、神韻公演のDVDも配り始めました。
しかしながら、歓喜心を旧勢力に利用され、共産党の第17回人民代表大会の時期、警察に連行され、留置場まで不当に送られてしまいました。留置場で、私は名前を名乗らず、留置場の服を着ず、留置場の規律を暗記しないなど、一切の要求に従いませんでした。大法弟子はこれほど意志が強いのを見て、収監者も親指を立てて感心していました。私は彼らに真相を伝えて「三退」を薦め、2号室の収監者たちのほとんどが同意しました。本名を使う人もいれば、外に出たら法輪功を学びたいという人もいました。さらに看守所の所長、検察院と政法委の人に対して、天安門の焼身事件の真相、江沢民が国土を売ったこと、自らの体験と法輪功のすばらしさを教えました。また、予備審問を行った2人の審問員に、法輪功学習者の臓器が強制的に摘出されていること、江沢民、羅幹などが国際社会で指名手配されていること、様々な天災について話しました。結局、私の案件は審理されず、起訴もされませんでした。このように私は正念を強め、頻繁に正念を発し、法を繰り返し暗記しました。結局、師父の加持と同修の正念による応援により、留置場を出ることができました。
出所後、多くの人が家へ嫌がらせに来たり、私を監視したりしました。私は彼らに、焼身自殺事件などの真相を教えました。また、社会の治安問題に触れ、「自転車をなくしたことがあるか」と聞くと、主任でさえ五台の自転車を無くしたことがあると言いました。私は、「泥棒がこんなに多いのに、真、善、忍に従って、よりよい人を目指している人をあえて監視しています。私は選挙権利を持つ公民ですが、これが公民に対する扱いでしょうか。権利を侵害していませんか?」と、私は自分の意見を表しました。これを聞いて彼らは「上から君たちを監視せよとの命令があって、私たちも仕方がありません」と言いました。彼らは真相を理解してから、二度と家に来ることはありませんでした。
家を改装するときに、施工業者の人たちにも真相を伝え、同時に近くの何軒かの家で工事を行っていた人たちにも「三退」を説明し、全員に同意してもらいました。中共の退職した管理職員たちに真相を伝えたとき、彼らは共産党内の争いの激しさと残酷さについて、最も深く理解してくれました。彼らの経験は、『九評』の記載内容がほぼ事実であることを実証しました。彼らは定年退職していますが、人との付き合いがまだ多いので、一人が真相を理解すれば、かなり多くの人に影響を与えます。ある日、昔の工場長と出会い、「昔、あなたが現役の時、上に立つ人は清廉潔白でしたが、現在は変わってしまいましたね。工場長のように廉潔な人がいるでしょうか。今の役人は人民ではなく、人民元のために奉仕していると言えるでしょう。車と住宅を二つ以上持つのは、今では当たり前ですよね。職位が高ければ高いほど、子孫へ残す財産を用意すればするほど、賄賂がひどくなりますね。天安門焼身事件を聞いたことがあるでしょうか」と雑談のように話しました。そして、工場長は「ある、ある」と言ってうなずきながら、褒められたために喜んでいました。それから、「貴州の蔵字石を聞いたことありますか」と聞いてみたら、「あります」と工場長は言いました。「天災は誰に向かっているか分かるはずですね。工場長は、中共の副葬品にならず、天意に従ったほうがいいですよ」と話しました。これを聞いて、「それなら、三退をしてくれますか」と工場長は私に頼みました。
やりたいという想いがあれば、師父は縁ある人を導いてくれるはずです。今まで、軍隊の各階級の人、公安の各階級で働く人、国務院に属する人や党委員会など各省庁の人、教授や専門家など、様々な人が真相を聞いて三退しました。もちろん、受け入れない人もいますが、私は落胆せず、常に次の同修が彼を救い済度できるようにと発正念します。
私と連れ合いは精進している同修と比べて、まだまだ不足なところがあります。正法の最後の期間中に、法をしっかりと学び、問題が起きたら内に向けて探し、時間をできるだけうまく利用し、多くの人を救い済度できるよう、古い弟子が果たすべき作用を果たします。最後に、同修の慈悲なる応援と、師父の恩に心から感謝いたします