文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年7月3日】師父の『二十年説法』を学んで、自分の思想境地が法理に基づいて次々と昇華していくように感じ、心の容量も大きくなりました。 学法を終えて、私達が今直面している「同修の間で互いに協調し合う時に現れた問題」や、衆生を救い済度する際に直面した困難などは、皆ちっぽけな存在だと思いました。また、法を正す師父について歩んできた歳月の中での紆余屈折は、淡々としてまるで夢のようです。実際、師父が法を正される中で、私達が行なった全て、経験した魔難は、この上なく広くて厖大な宇宙天体の中では、塵埃のように小さく取るに足りないものです。ここで、私の少しばかりの体験を同修の皆 さんと交流したいと思います。
師父が要求された三つのことについて、さらに深く悟る
常人社会で、法を正す師父を手伝うという私達の修煉は、ただ師父が膨大な宇宙体系において法を正すことの中のごく僅かな一部にすぎません。宇宙の中にどれほどの天体体系があるのでしょうか? どれほどの宇宙があるのでしょうか? どれほど無量無数の生命がいるか計りしれません! 師父が法を正されることは巨視的視点から全体をとらえています。師父が救おうとされているのは無量の宇宙体系、及びこれらの宇宙体系に含まれる無数の宇宙と、その宇宙の中にいる計り知れない数のすべての生命なのです。
魔難に陥って常に人心を持っている同修や大法弟子に対し、邪悪な生命に支配された人間は、法理をしっかり理解できていない大法弟子に、ある言葉を使って惑わします。例えば、「あなた達の師父は膨大な神通力を持っているのに、どうして今のあなたを救えないの? どうしてあなたは捕まって、刑罰を受けているの?」等です。
言うまでもなく、師父には私達を守る能力があることは紛れもない事実です! しかし、私たちが法理から認識したように、師父は私達を守ってくださるのですが、私達が修煉の道で、また法を正す師父の手伝いをする道で遭遇した一切の難や一切の魔難には、二つの原因があるのです。一つは、長い歴史の中で深く結びついた因縁、借りによってできた業力、済度される生命のために耐える試練などです。もう一つは、私たち自身の人心による執着、人類社会で形成した各種の観念と人心がもたらした障碍です。
まだ法によって正されていない私達自身や、 法に同化していない部分の生命は、まだ異なる次元の旧宇宙の生命の歴史上の按排と試練の中にいます。私達は旧宇宙の歴史上の按排を認めません。しかし、認めていないからといって存在しないのではありません。師父はこれらの旧宇宙の生命を救うために、これらの按排を利用して、基準に達するかどうか、私達の行いを見られるのです。もし修煉において遭遇するあらゆる難を師父が全部取り除いてくださり、私たちがいかなる業力も償わなければ、旧宇宙の生命は私達の昇華を認めないだけでなく、新宇宙の異なる次元の基準も私達を制御してしまうのです。宇宙の異なる次元の基準は金剛不動であり、師父もそれらの基準に触れません。異なる宇宙のこれらの基準は、異なる次元の生命に対して平等なのです。大法弟子だからといって、青信号を出して通過させることはないのです。
師父はなぜ、学法の重要性を再三に強調されるのでしょうか? それは、学法は生命の昇華と向上の根本だからです。大法は無量無数の宇宙体系を作り上げました。全ての次元の生命は、全てが大法に同化され、法を正す中にいます。しかし、人間社会の各種の生命の行動は、異なる宇宙の異なる次元の生命の行いそのものです。三界は法を正す中心であり、異なる次元の生命の代表はここに集まり、師父が法を正す中で、それらの次元の生命の代表として自分たちの状態を表しているのです。法を正すことに対する態度は、その次元の宇宙生命、あるいは宇宙体系の生命が残されるか、消滅されるかを左右するのです。
私達の責任とは何でしょうか? もし私達が法をしっかり学ばず、心性にも本質的な変化がなく、異なる次元で異なる生命への要求に達しておらず、様々な人心を持ったまま、正念を発して衆生を救い済度しようとすれば、いろいろな困難に直面してしまいます。自分の宇宙体系の中にいる生命を救うことができないだけで なく、他のたくさんの宇宙体系と連帯している無量の衆生も救うことができません。私達はただ一つの簡単な生命を救っているわけではないのです。なぜなら ば、人間世界で1人の生命が救われることは、その生命の背後にいる次元の宇宙、もっと厖大な宇宙体系と連帯している無数の衆生も救われることを意味しているからです。
私達が歩む道は、なぜこんなに難しいのでしょうか。それは、異なる宇宙の基準に達しなければならないからです。私達は必ず自分を純粋な状態にまで修め、強い正念で、旧宇宙の歴史上での按排を否定しなければならないからです。しかし、否定する事は、ただ単に自分が認めないだけでなく、私達が浄化されたのか、考えが 基準に達しているのかを見ることだと思います。私達の一つの考え、一つの念が法の上にあるのか、人心や人の観念を持っているのかを見ます。全ての妨害と試練は、みな私達の人心と観念を狙ったものです。
師父は次のように説かれました。「修煉の中で人心を取り除かなければ、いかなる物も人間の執着を引き起こすことができ、いかなる物も人間の修煉の妨害となるのです」(『二十年説法』) 内に向けてこれらの人心を探して取り除けば、妨害は消えて、私達が歩む道も平坦になりますので、法を学び、心を修めることはとても大切です。全ての正念はみな法から生まれます。もし私達が皆コツコツと学法し、しっかり心を修めて、内に向けて探すことができれば、邪悪は自滅します。 なぜなら、邪悪が乗じる隙がないからです。私達はもう邪悪に妨害されるようないかなる人心と観念も持っていないからです。
私達は事をするとき何も求めません。良い案があれば持ち出して、全体で円融していきます。具体的に行う過程でどこか至らないところがあれば、自分の方法で補い完成させるだけで、自分の考えと方法に執着しません。自我に執着しているのは、まさに旧宇宙の生命の表れではないでしょうか? 異なる次元の生命が自分で動かず、他人を変えたい行動と同じではないでしょうか? まだ新宇宙の基準に達していない私達の思想は、旧宇宙の利己的な腐敗した心を帯びていますが、 新宇宙は私達が正法正覚になるまで修めることを要求しているのです。
いかなる人心も動じてはいけません、常人社会にどんな変化が起きても、それは必然な天象の変化であり、私達の念を変えてはいけません。「做して求めざれば、常に道中にいる」(『洪吟』「道中」) 着実に私達が行うべきことを行い続け、法をしっかり勉強して自分を清め、正念を発して邪悪を取り除き、衆生を救い済度して、師父が要求されたことを円融さえすれば、初めて私達の道を順調に歩むことができます。