放棄(2012)
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文/蜀道子

  【明慧日本2012年8月5日】私が法輪大法を修煉する16年間で、最も深く認識したのは「放棄」することです。この二文字は、修煉する前の私にとっ て関係のないものでした。なぜなら、私は記憶があるときからずっと他人と争ってきましたので、古人が「放棄」という文字を作ったことさえ知らなかったので す。私は小さい頃も大人になってからも、非常に自信家でした。私のものであるかどうかにかかわらず、欲しいものは争い、1日で手に入れることができないな ら、2日目も争い続け、必ず手に入れました。私にとって人と争うことは、私が生きることのすべてであり、勝つことこそが私の喜びであり、毎日人と争うことで人生の喜怒哀楽を味わってきました。

 中国共産党が行った何回かの政治運動は、私の闘争心をさらに強めました。道徳が壊滅した状況の中で、私はそれまでの勝った経験と負けた教訓を総括し、生き残るための生存法則をまとめました。しかし、その観念が私の思惟に溶け込んで思想業力が生まれました。私は地中に深く埋められたように、毎日自分が何をしているのか、何のために生きているのか分かりませんでした。

 すでに述べたように、修煉する前の私は独りよがりと言ってもいいほど自信過剰でした。数十年の生活で同僚から「たくさんの人の話を聞いてきたが、最も優秀な人はあなただ」とおだて上げられる事が多く、それを聞いて嬉しくなっていました。しかし、大法の修煉においては、それまで通りに行かなくなりました。私は、1996 年に修煉を始めましたが、参加した2回の法会で、同修には自分なりの修煉体験があるのに、私は師父に感謝する気持ちしか言うことができませんでした。学法するときに眠りそうになったり、第五式の功法を煉る時に恍愡になったりしました。書いた交流文章が明慧ネットに掲載されたこともありましたが、1年後、私の文章は法から離れていると批判する文章がありました。一体どこに私の問題があるのでしょうか。私の修煉は、なぜこんなにも向上しないのかと私は内に向かって探しました。

  師父の『佛性』という経文を学んで、私ははっと悟り、すべての疑問が解決しました。今まで形成された観念は真の私ではなく、私はこの観念にしっかり制御され苦しんできました。実は、このすべては執着で業力であり、私自身が求めていたものではなく、真の自分がどこにいるか、一体何のために生きているのか分からないのに、誰よりも自分が正しいと思うことなどあり得るでしょうか。私は大法を修煉して、これらのすべてを取り除くべきでした。

 師父は『二〇一二年米国首都国際法会での説法』の中で次のように説かれました。「私たちはその政権を必要としません。どれほどの大法弟子が当初修煉を始めたときに、「私は既に大法を得ました。『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』と話していたでしょう。大法を得たのですから、大統領を任されてもなりたくはありません、修煉をするからです。つまり、一人の修煉者として、これらの世間の利益を放棄するものであり、修煉者が求めているのはこれらのものではなく、人間世界の執着を放棄することなのです」

 放棄することこそ、修煉者としてあるべき境地であり、放棄できて、はじめて真の自分を見つけることができます。

  私は自分を地中から掘り出して救いたいと思いました。そしてその日から、『転法輪(巻二)』の中の「佛性」を暗記しようと決心しました。しかし、不思議なことに、私は『転法輪』をすべて暗記するのに1カ月余りしかかからないのに、「佛性」という経文を暗記するのに半月かかってしまいました。最初、半日間ずっと暗記していましたが、何も覚えられず、茫然となってしまいました。これは邪悪の妨害で動揺してならない、これは観念により生じた思想業力が妨害していると悟り、『転法輪』の「主意識を強くもつべし」を暗記しながら、「佛性」を暗記しました。そして半月かかって、やっと覚えることができました。

 表面から見ると、二つの文章を暗記しているに過ぎませんが、他の次元では正邪の戦いだったに違いありません。私自身の表れとしては思想境地を向上させることでした。名・利・情を放棄し、独りよがりを放棄し、すべてのよくないことを放棄する勇気が私に生まれた時、学法するときに眠くならず、煉功するときに恍愡とすることなく、発正念をするときに掌も倒れなくなり、私の修煉状態は完全に変わりました。関と難にぶつかる時、如何なる法を対照し、内に向かって探すべきか分かりました。

 ある時期、私はよくめまいがして、数秒から2、3分間意識がなくなることがありました。普段、右手はいつも震えていました。私は病院の仕事をしたことがあるので、病気に関する知識が少しありました。

  私の症状からすると、常人としては「ひどい病気」に違いありません。常人なら、早く入院すべきで、妻と子供は大きな恐怖を感じるはずですが、私は焦らず、 何も起こっていないかのように生活しました。誰にも言わず、病気を気にしませんでした。なぜなら、修煉は病気を治療することができますが、病気治療のためではなく、この状態も病気ではなく、ただ一種のうわべの現象であると分かっていたからです。ここで、肝心なことは常人の観念を放棄できるかどうかということです。放棄できれば向上して、難も自然になくなります。逆に、常人の観念をいつまでも抱いて、どうしても放下できなければ、難もますます大きくなってしまいます。修煉者として、悟ることができれば、常人の観念を惜しまず放棄すべきです。私がすべての観念を放棄した時、病気のような状態は二度と現れませんでした。

 修煉過程において、よく個人と全体の関係で問題が起こります。そのとき、私は自分の意見にこだわらないで、いつも自分の意見を放棄しました。

  師父の米国での説法が発表された後、私は50人以上の人たちと一緒に説法を学んで皆で交流しました。私が自分の理解を話し始めたとき、ある同修に遮られ、 「あなたは話すのをやめてください。あなたが言っていることを私たちは理解できません。他の人に話してもらいましょう」と言われました。私は同修の意見を尊重して、すぐやめて時間を他の人に譲りました。誰が正しく、誰が間違っているかが肝心ではなく、勝ち負けを争うのは常人です。修煉者に最も肝心なことは自我を放棄することです。なぜかといえば、自我を放棄すれば、法に同化して、執着を取り除いて、よくないものを捨て去ることができるからです。

 われわれは共によくないものをすべて取り除いて、放棄しましょう。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/7/29/260682.html)
 
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